NPBシーズン勝利数ランキングTOP20

1シーズンで最も多く勝利した投手は誰か。最多勝の歴代記録を、当時の登板数やチームの試合数、近年の最多勝と比べる。

概要

NPB一軍公式戦の投手「勝利【シーズン記録】」。2025年度終了時点の歴代ランキングから20位までに該当する20シーズンを対象とする。1位は2件、18位は3件の同順位。球団・投手名は当時のNPB公式表記に準じ、2026年のシーズン途中成績は含めない。

現代の最多勝は年間10勝台のことも多いが、NPBの歴代シーズン記録は40勝を超える。2025年のセ・パ両リーグ最多はともに14勝。勝利数の絶対値だけでなく、各投手の登板数、敗北、完投・投球回、所属チームの試合数・勝利数を合わせて読むと、当時の投手起用や記録の特異さが分かる[1][2][3]。

詳細

NPBシーズン勝利数ランキングTOP20

NPB公式の2025年度終了時点では、1939年のスタルヒンと1961年の稲尾和久が各42勝で歴代1位タイ。3位は1942年の野口二郎の40勝、4位は1950年の真田重男の39勝となる。18位に31勝の記録が3件並ぶため、TOP20は同順位を含めてちょうど20シーズン。名前・球団は当時のNPB公式一覧に基づく[1]。

順位投手名球団年度勝利登板敗北
1スタルヒン巨人1939426815
1稲尾和久西鉄1961427814
3野口二郎大洋1942406617
4真田重男松竹1950396112
5須田博巨人1940385512
5杉浦忠南海195938694
7稲尾和久西鉄195735686
7権藤博中日1961356919
9藤本英雄巨人1943345611
10野口二郎セネタース1939336919
10野口二郎翼1940335711
10別所毅彦巨人1952335213
10稲尾和久西鉄1958337210
10小野正一大毎1960336711
15林安夫朝日1942327122
15杉下茂名古屋1952326114
15杉下茂中日1954326312
18金田正一国鉄1958315614
18杉浦忠南海1960315711
18皆川睦男南海1968315610

投手名・球団名・年度・勝利・登板・敗北はNPB公式の歴代一覧から転記。「★」は歴代1位タイ。順位は同順位を含むNPBの公式表記とし、選手を省いて順位を詰めてはいない[1]。

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一般的なシーズンと比べてどれほど多いのか

◇2025年の両リーグ最多は各14勝

2025年のセ・リーグは阪神の村上頌樹とDeNAの東克樹、パ・リーグは日本ハムの伊藤大海とソフトバンクの有原航平が各14勝で並んだ。歴代最高42勝は同年の最多14勝に対し28勝多く、ちょうど3倍。ただし1939年と1961年では試合数や先発・救援を兼ねる頻度が異なるため、数字の差だけを投球能力の差とは読めない[1][2][3]。

比較対象勝利登板補足
歴代1位タイ・1939年4268スタルヒン(巨人)
歴代1位タイ・1961年4278稲尾和久(西鉄)
2025年 セ最多14—村上頌樹/東克樹
2025年 パ最多14—伊藤大海/有原航平

2025年の最多勝はリーグ別リーダーズの公式値。登板「—」はこの簡易比較表では省略したことを表す。勝利数の比は42÷14で計算[1][2][3]。

◇近年の24勝0敗でも、歴代TOP20には入らない

楽天の田中将大は2013年に24勝0敗、勝率1.000を記録した。しかしシーズン勝利数の歴代20位の水準は31勝で、田中の24勝は歴代TOP20には入らない。一方で負けなかったことを測る勝率では歴代トップクラスの記録になる。「勝利数」と「勝率」は異なるランキングである[1][4][5]。

同じ42勝でも、投げ方も試合数も違う

◇スタルヒンは96試合制で42勝

1939年のスタルヒンは68登板、38完投、10完封勝、458回1/3を投げ、42勝15敗・防御率1.73・282奪三振。東京巨人は96試合で66勝したため、スタルヒンの42勝はチーム勝利数の約63.6%に相当する。これはチームの勝利を一人がどれほど多く担ったかを示す比であり、登板時の勝率や勝利投手の決定率ではない[6]。

1939年はスタルヒン自身が最多勝利・最多奪三振を獲得し、巨人もリーグ優勝。野球殿堂博物館によれば、後年には日本プロ野球初の通算300勝投手となった。42勝の記録は個人の投球量と、その時代の少数投手への依存を併せて読む必要がある[6][7]。

◇稲尾和久は140試合制で42勝

1961年の稲尾和久は78登板、25完投、7完封勝、404投球回、42勝14敗。防御率1.69・353奪三振も記録し、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振などでパ・リーグの投手タイトルを獲得した。西鉄のチーム成績は140試合81勝で、稲尾の42勝はチーム勝利の約51.9%にあたる[8][9]。

同じ42勝でも、1939年のスタルヒンは96試合のチームで68登板、1961年の稲尾は140試合のチームで78登板。1登板あたり投球回はスタルヒン約6.7回、稲尾約5.2回と差があり、登板と投球回だけでも異なる起用法が見える。なお1登板あたりの投球回は先発・救援を含めた単純平均であり、先発時の平均投球回ではない[6][8]。

投手・年度勝敗登板完投投球回チーム試合
スタルヒン 193942勝15敗6838458.196
稲尾和久 196142勝14敗7825404140
野口二郎 194240勝17敗6641527.1105
杉浦忠 195938勝4敗6919371.1130

表の「.1」は1/3回、「.2」は2/3回であり、十進小数ではない。杉浦忠の投球回・試合数は1959年NPB年度別資料による。投球回÷登板の換算は端数を実際のアウト数に直して計算。チーム試合数は各投手所属球団の公式日程[6][8][10][11]。

勝利数と勝率では順位が変わる

◇38勝でも、勝率は.905と.760

歴代5位タイの38勝は1940年の須田博と1959年の杉浦忠が達成。しかし須田は38勝12敗(勝率.760)、杉浦は38勝4敗(.905)だった。同じ勝利数でも敗戦数には大きな差があり、勝率だけなら杉浦の成績のほうが高い[1][11][12]。

1959年の杉浦は防御率1.40、336奪三振を残し、MVPを受賞。野球殿堂博物館によれば、日本シリーズでも巨人との全4試合に登板し4勝を挙げ、南海を日本一に導いた。公式戦の38勝と日本シリーズの4勝は別の大会の成績であり、歴代シーズン勝利数ランキングにはポストシーズンの勝利を合算しない[11][13]。

投手・年度勝利敗北勝率登板勝利/登板
スタルヒン 19394215.7376861.8%
稲尾和久 19614214.7507853.8%
須田博 19403812.7605569.1%
杉浦忠 1959384.9056955.1%
権藤博 19613519.6486950.7%

勝率=勝利÷(勝利+敗北)。勝利/登板=勝利÷全登板で、救援登板を含む単純な参考値であり、公式の勝率ではない。小数第3位または1桁%に丸めた。2013年田中将大の24勝0敗と比較すると、勝率の尺度は特に異なる[1][4][5][6][8][11][12][14]。

登板数や投球回に現れる当時の特殊な起用

◇1942年の野口二郎は40勝・527回1/3

歴代3位は1942年の野口二郎の40勝。66登板、41完投、19完封勝、527回1/3を投げ、さらに17敗も記録した。40勝の一方で年間投球回が500回を超えるのは現代の先発投手とは大きく異なる負担であり、勝利数だけでは見えない時代背景である[10][15]。

◇林安夫は32勝22敗、541回1/3

1942年の林安夫は71登板、44完投、541回1/3で32勝22敗。投球回はNPBシーズン歴代最高であり、最多勝の上位に入りながら22敗を喫している。勝利数・勝率・投球回を一緒に並べると、同時代の大量登板による勝敗の蓄積が際立つ[10][16]。

◇新人の権藤博は35勝・429回1/3

1961年の権藤博は中日で69登板、32完投、35勝19敗、429回1/3、防御率1.70・310奪三振を記録。最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振のほか新人王と沢村賞も獲得した。野球殿堂博物館は当時の連投を「権藤、権藤、雨、権藤」と紹介している[14][17]。

◇1950年の真田重男は39勝でも防御率3.05

1950年に松竹ロビンスで39勝12敗を記録した真田重男は61登板、28完投、395回2/3、防御率3.05。この年の松竹はセ・リーグ優勝を果たし、チーム最多勝利を大きく担った。一方、同じチームの大島信雄は防御率2.03でリーグの最優秀防御率。最多勝を挙げた投手がリーグで最も防御率のよい投手とは限らない[18]。

同じ投手が複数シーズンにランクイン

◇稲尾和久は42勝を含む3シーズン

稲尾は1957年35勝、1958年33勝、1961年42勝の3シーズンが今回のTOP20に入る。野口二郎も1939年33勝、1940年33勝、1942年40勝で3回。杉浦忠は1959年38勝・1960年31勝、杉下茂は1952年32勝・1954年32勝と、歴代20記録には同一人物による複数回の達成が含まれる[1]。

◇当時の登録名に注意する

1940年の須田博は、1939年に42勝を記録したスタルヒンと同一人物。NPB公式の在籍者名簿には戦時中の改名が記載されている。また、1950年の真田重男は戦後の記録で「真田重蔵」とも表記される人物で、1947年の別所昭と1952年の別所毅彦も同一人物。歴代の記録表では当時の公式表記を尊重し、名前が異なるだけで別人には数えない[1][7][19][20][23]。

◇1968年の皆川睦男が上位入りの最も新しい年度

今回の歴代TOP20で最も新しい年度は1968年で、南海の皆川睦男が56登板・31勝10敗・防御率1.61を記録した。NPB公式の31勝以上の歴代一覧には1969年以降の年度が入っていない。先発・救援の役割分担や試合数・登板間隔の変化があるため、過去の年間勝利数と現代の投手を単純比較しない[1][21]。

42勝には記録の数え直しをめぐる歴史もある

◇稲尾の42勝達成時には「新記録」の認識もあった

野球殿堂博物館が紹介する当時の資料によると、スタルヒンの1939年の勝利数は、戦前の勝利投手決定基準をめぐって一時40勝と扱われたことがあった。このため1961年に稲尾が42勝に達した際、従来記録を更新したと受け止める見方もあったという。その後は当時の記録員の決定を尊重する形でスタルヒンの42勝が再確認され、現在のNPB公式ランキングは2人を1位タイとしている。記録の公式な扱いと過去の議論は区別して記述する[1][22]。

野球殿堂博物館の紹介では、稲尾の42勝目は1961年10月11日の阪急戦。8回から救援登板し、味方の決勝本塁打で勝利投手となった。現在の先発ローテーションだけを想像すると分かりにくいが、当時は救援での勝利も多く、一試合を完投せずに白星が付くケースが積み重なっていた[22]。

このランキングで分かること

1939年と1961年の42勝は同じ数字でも、チームは96試合制と140試合制、登板は68と78、投球回は458回1/3と404回。さらに38勝で並ぶ須田博と杉浦忠でも、敗戦数は12と4で勝率が違った。過去の勝利数ランキングを読むには、単純な白星の数だけでなく試合数・投球量・勝率・同年のリーグ状況まで見ることが大切である[1][6][8][11][12]。

◇集計条件と注意

対象はNPB公式「勝利【シーズン記録】」の2025年度シーズン終了時点。18位31勝は3件で、合計20シーズン。勝率は勝利÷(勝利+敗北)、勝利/登板とチーム勝利に占める割合は記事独自の参考値で、NPBの公式タイトル獲得条件・公式勝率とは使い方が異なる。昔のチーム試合数や投手の先発・救援起用は現在と異なる。1939年のスタルヒンの勝利数には過去の再検討経緯があるが、現在の公式記録42勝を採用する。資料確認日:2026年10月9日[1][22]。

何がすごいのか

  • シーズン歴代最多はスタルヒン(1939年)と稲尾和久(1961年)の各42勝。2025年の両リーグ最多14勝の3倍。
  • 同じ42勝でもチーム試合数は96と140、登板68と78で、当時の起用法が異なる。
  • 歴代18位に31勝が3件並び、TOP20は20シーズン。記録上位の最新年度は1968年。

出典