1試合で最も多く投球した投手

近年、先発投手は1試合100球前後を目途とすることが多いが、NPBの公式戦において、ルールとして球数制限があるわけではない。 言い換えれば、何球でも投げられる。

一般的には?

2016〜2025年の一軍レギュラーシーズンでは、先発投手の1登板当たりの平均投球数は約94.5球だった。先発全員の球数を合計して先発登板数で割った値で、短い登板も完投も含む。試合の最初から最後まで一人で投げるとしても、通常は九回が一つの区切りになる。ところが、昔の延長戦には、その感覚を大きく超える試合があった[C1]。

2016〜2025年の先発1登板の平均
約94.5球

答え

1試合の投球数344球

公表資料で1試合最多と伝えられるのは、野口二郎が1942年5月24日の名古屋戦で投じた344球。大洋軍の先発として延長28回を完投し、試合は4―4の日没引き分けに終わった[A1][A2][B1]。

年
1942年
選手
野口二郎
チーム
大洋軍
カテゴリ
投手

普通と比べると

2016〜2025年の先発1登板の平均
約94.5球
1試合の最多投球数
344球

近年の先発平均の約3.64倍

ユーザー指定の2016〜2025年を基準にした、時代の異なる比較。記録の年の平均ではない。平均=先発登板時の総投球数1,594,953球÷先発登板16,884回。8,442試合×両チームの先発2人を集計。交流戦、引き分け、コールド成立試合、早期降板、オープナーも含み、救援、二軍、オープン戦、オールスター、ポストシーズンは除く。規定投球回の条件は付けない。倍率は丸める前の平均で計算した[C1]。

詳細

◇投球数記録の扱い

野球殿堂博物館と中日球団の年表で、両先発による28回完投と日没引き分けを確認できる。344球という数値はNHK名古屋放送局の資料と野球専門誌の回顧記事にも残り、歴代記録の整理では最多として掲載されている。一方、当日の原スコアブックや一球ごとの記録は本調査では確認できていないため、「公表資料に残る最多」として紹介する[A1][A2][A3][B1][B3]。

◇試合の記録

1942年5月24日 大洋軍対名古屋軍5回戦 後楽園球場。名古屋が先攻、大洋が後攻。延長28回、4―4の日没引き分け。試合時間は3時間47分と伝えられている。ここでいう大洋軍は、戦後の大洋ホエールズとは別の球団である[A1][B2][B3]。

◇スコアボード

チーム123456789
名古屋011000002
大洋000002200
チーム101112131415161718
名古屋000000000
大洋000000000
チーム19202122232425262728RHE
名古屋00000000004135
大洋00000000004156

R=得点、H=安打、E=失策。表は公表された試合記録から作成。10〜28回の19イニングは両軍とも無得点[B2]。

◇投球結果

投手球団球数回打者被安打奪三振球※失点自責点
野口二郎大洋344281051313642
西沢道夫名古屋31128103156643

両投手とも完投。引き分けなので勝利投手・敗戦投手はいない。参考として二人の合計は655球だが、今回の記録は一人の投手の投球数を比べたもの。失点は各4、自責点は野口2・西沢3で区別した[B2][B3]。

※「球」は参照資料の列名を保持したもの。四球と死球の内訳を当日の原資料で確認できていないため、別々の数値には分解していない[B2]。

おすすめ記録の歴史NPB通算完投ランキングTOP20先発投手が最後まで投げ抜く完投。歴代で最も多く完投した投手たちを、登板数や完封勝、時代による起用の違いから読み解く。

◇両チームのオーダーと打撃結果

打順は先発時の順。途中出場者は同じ打順の直後に記す。打撃成績、盗塁、失策はこの試合の数値で、シーズン打率や累計本塁打数は混ぜない[B2]。

◇名古屋

打順位置選手名打数安打打点三振球※盗塁失策
1(二)石丸藤吉12001000
2(遊)木村進一11202103
3(中)桝嘉一10200200
4(右)飯塚誠11102100
5(捕)古川清蔵11223100
6(左)吉田猪佐喜11201100
7(一)野口正明11102001
8(投)西沢道夫11202000
9(三)芳賀直一11110001

◇大洋

打順位置選手名打数安打打点三振球※盗塁失策
1(三)中村信一11201100
2(遊)濃人渉9100104
3(右)浅岡三郎10221201
4(投)野口二郎12100000
5(一)野口明10100000
6(左)村松長太郎11200000
7(二)山川喜作2001000
(代打→二)苅田久徳8300101
8(捕)佐藤武夫11213000
9(中)織辺由三10100100

本塁打:古川清蔵1本(9回、2ラン)。二塁打:名古屋は古川清蔵・野口正明・西沢道夫・芳賀直一、大洋は浅岡三郎・佐藤武夫。三塁打は両軍ともなし。苅田久徳は7回に山川喜作の代打で出て、そのまま二塁に入った[B2][B3]。

資料中に「織部由三」とする表記もあるが、選手名はNPBの年度別成績に合わせて「織辺由三」とした[A6]。

試合のハイライト

◇逆転から土壇場の同点へ

名古屋は二回と三回に1点ずつを先行。大洋は六回、浅岡三郎の2点二塁打で追いつき、七回には佐藤武夫のバント安打などで2点を加えて逆転した。しかし九回二死、古川清蔵の2ランが飛び出し、4―4で延長戦へ入った[B2]。

◇終盤にもあった決着の機会

二十六回の名古屋は、西沢道夫の二塁打で一塁走者が本塁を狙ったもののアウト。二十七回の大洋も、織辺由三の中前打で二塁走者が三塁を回ったところで転倒してアウトになった。いずれも得点に至らず、二十八回の終了時に日没で試合が打ち切られた[B2]。

◇球場の第3試合だった

週刊ベースボールの回顧記事では、この一戦は当日の後楽園で組まれた3試合の最後とされる。大洋は前の試合から25分の休憩で臨んだという。当時はナイター設備がなく、さらにこの年は延長回数の上限が外されていたと報じられている。長く続けられる制度と、明るいうちしか試合を続けられない球場条件が重なった一戦だった[B3]。

◇前日にも投げていた野口

同記事によると、野口は前日にも九回まで投げて完封していた。翌日の28回と合わせると、二日間で37回になる。前夜の飲酒と二日酔いについても逸話が記されているが、これは後年の回顧記事が伝えるエピソードで、当日の原記録で裏付けた事実とは分けて読む必要がある[B3]。

◇その年の両先発

選手登板勝利敗戦完投完封勝投球回奪三振防御率
野口二郎6640174119527 1/32641.19
西沢道夫3571191211521.75

上表は1942年のシーズン成績。野口の41完投のうちの一つがこの引き分けだった。西沢も同年7月18日にノーヒットノーランを達成し、戦後には打者として1952年の首位打者と打点王を獲得する。投手としての耐久力を語るこの試合には、のちに打者でも名を残す選手がそろっていた[A3][A4][A5]。

現代の先発平均投球数との比較

◇年間平均ではなく先発登板ごとに数える

先発と救援を兼ねた投手の年間総投球数を先発数で割ると、救援時の球数まで混ざってしまう。そこで公式ボックススコアの各チームの投手成績から、最初に登板した投手の「投球数」だけを採用した。投手ごとの平均をさらに平均する方法でもなく、先発登板一回ごとに同じ重みを与えた集計である[C1]。

年対象試合数先発登板数先発時の総投球数平均球数
20168581,716171,840100.14
20178581,716168,63598.27
20188581,716168,12597.97
20198581,716157,94992.04
20207201,440133,10092.43
20218581,716159,41392.90
20228581,716158,22792.21
20238581,716159,38892.88
20248581,716159,07492.70
20258581,716159,20292.78
合計8,44216,8841,594,95394.47

平均球数=その年の先発時総投球数÷先発登板数。2020年は短縮シーズンのため試合数が少ない。10年合計の平均は、各年の平均を単純平均せず、全登板を合算して求めた。出典はNPB公式の試合別投打成績で、上の平均値は本記事独自の集計。付属集計表には先発登板ごとの球数と公式ページのURLを収録した[C1]。

◇大きいのは一回の球数より投げた回数

野口の344球は近年の先発平均の約3.64倍。ただし、投球回も28回あり、九回の約3.11倍だった。344÷28=1イニング平均約12.29球という算術から見ると、球数の大きさは、主として途方もない長さを一人で投げ抜いたことから生まれている。近年の一登板と同じ長さの試合で球数が膨らんだ記録とは区別して考えたい[B2][C1]。

確認の範囲

対象は日本の一軍プロ野球の公式戦で、一人の投手が一試合の登板中に投じた球数。練習投球・牽制球・両チームの合計球数は対象外。最多記録の当日成績は公表された二次資料から再構成し、原スコアブックと全打席の打球結果は未確認。現代比較は2016〜2025年終了までのレギュラーシーズン全試合を集計。確認日:2026年10月6日。

何がすごいのか

  • 延長28回を途中交代せず、一人で投げ切った。
  • 相手の先発も完投し、二人で655球を投じた。
  • 野口は4番打者として打席にも立ち続けた。

出典