記録の歴史
NPBシーズン敗北数ランキングTOP20
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1シーズンに最も多くの黒星を喫した投手は誰か。歴代の敗戦数を当時のチーム事情や投球量、近年のリーグ最多と比べる。
概要
NPB一軍公式戦の「敗北【シーズン記録】」。NPB公式の2025年度終了時点に掲載される24敗以上、歴代21シーズンを対象とする。17位には24敗が5件並ぶため、TOP20相当は21記録。年度はシーズン、球団名は当時の公式略称。2026年度の途中成績は含まない。
投手の1シーズン敗北数は現在では2桁台が各リーグの最多になることが多い。しかし歴代の上位には、1人で20敗以上を喫しながら何十回も登板した投手が並ぶ。敗戦数は投球能力の評価を直接示すものではなく、登板機会、チームの得点力、投手への負担とも関係する。NPB公式順位を基点に同年のチーム成績や勝敗・投球回を併せて比べる[1][2][3]。
詳細
NPBシーズン敗北数ランキングTOP20
NPB公式の2025年度終了時点では、1940年の中山正嘉(金鯱)が29敗で歴代1位。2位は1941年の福士勇(朝日)の28敗、3位タイに27敗の6記録が並ぶ。17位の24敗が5件あるため、20位に該当する記録を途中で打ち切らず、全21シーズンを掲載した[1]。
順位・投手名・球団・年度・敗北・登板・勝利はNPB公式の歴代最高記録から転記。順位は同順位を含む公式表記。「★」は歴代1位。球団名は当時の表記を尊重した。集計は一軍公式戦のシーズン成績である[1]。
関連記事投手通算で最も多くの借金を残した投手は?通算の勝ち星だけでなく、勝利と敗北の差から投手の歩みを読む。長い現役生活を終えて、敗北が勝利を最も大きく上回ったのは誰だろうか。一般的なシーズンと比べてどれほど多いのか
◇2025年の最多はセ14敗・パ10敗
2025年のセ・リーグ最多敗北は広島・森下暢仁の14敗、パ・リーグは西武・隅田知一郎とロッテ・小島和哉の各10敗。歴代最多の29敗はセ最多より15敗多い約2.1倍、パ最多より19敗多い2.9倍に相当する。ただし現代と過去では先発ローテーション、投球間隔、チーム試合数、救援起用が異なる[1][2][3]。
2025年のリーグ最多はNPB公式リーダーズ。差は29−14=15敗、29−10=19敗。倍率は29÷14、29÷10を計算した参考値。比較表の2025年の登板「—」はここでは掲載していないことを示す[1][2][3]。
敗戦数の歴代1位と2位はチームの敗戦をどれほど背負ったか
◇中山正嘉の29敗は球団全体の63敗の約46%
1940年の中山正嘉は金鯱で61登板・19完投、367回1/3を投げて18勝29敗、防御率2.86。チームの名古屋金鯱は104試合34勝63敗7分で、29敗はチームの年間敗北63の約46.0%にあたる。前年1939年には25勝21敗、防御率2.04を記録しており、毎年の成績が「投手個人だけで決まる」ものではないことが分かる[4][5]。
さらに1940年の金鯱はチーム打率.200、チーム防御率2.98。打線と投手陣を含むチーム事情のなかで、中山一人に登板・投球回・敗北が集まったことを示す。ただし個別試合の援護点や勝敗の原因までは、年間のチーム打率だけから断定できない[5]。
◇福士勇は85試合制のチームで28敗
1941年の福士勇は朝日で57登板、31完投、396回2/3を投げて17勝28敗、防御率1.88。所属した朝日は85試合25勝59敗1分で最下位となり、福士の28敗はチーム全敗戦59の約47.5%だった。防御率が2点を下回っていても大量の黒星を喫しており、投手の失点を抑える力とチームが勝つ結果は別の指標である[6][7]。
球団敗北比=対象投手の敗北÷チーム全敗北×100。複数投手が一球団に在籍していても敗北は各試合の敗戦投手に付く。この比率は球団の負けを何割担当したかを示すだけで、敗戦時の投球内容の評価ではない。投球回の「.1」「.2」はそれぞれ1/3回・2/3回で、十進小数ではない[4][5][6][7][8][9][10]。
同じチームで2投手が27敗を記録したシーズン
◇1939年のイーグルスは二人で54敗
1939年はイーグルスの亀田忠が14勝27敗、望月潤一が8勝27敗で、ともに歴代3位タイ。チームは96試合29勝65敗2分で最下位となった。この2投手の敗北の合計54はチーム65敗の約83.1%を占める。二人の勝利合計は22勝で、チーム29勝の約75.9%だった。年間成績を見ると、ごく少数の投手が勝敗を集中して受け持ったことが分かる[1][11]。
なお「敗北が多い」は「最も打ち込まれた」と同義ではない。歴代表には登板数・勝利数が掲載されているので、勝敗数と登板機会の大きさを一緒に確認する必要がある。
27敗しながら奪三振王だった投手
◇秋山登は24勝27敗で312奪三振
1957年の秋山登は大洋で65登板、27完投、406投球回、24勝27敗、防御率2.50、312奪三振を記録。この312奪三振は同年のセ・リーグ最多で、27敗という数字だけでは見えない働きがあった。大洋は130試合で52勝74敗4分の最下位。秋山の24勝はチーム52勝の約46.2%、27敗はチーム74敗の約36.5%にあたる[1][12][13]。
新人年の1956年にも秋山は25勝25敗・58登板・379回2/3。2年で50勝52敗という極端な勝敗の積み重ねだった。しかし1960年には21勝10敗・防御率1.75で大洋の初優勝に貢献しMVPを獲得。野球殿堂博物館も「大洋初の日本一に貢献した大エース」と紹介している。敗戦数上位の記録は必ずしも低い実力を意味しない[12][14]。
勝利数と敗北数を組み合わせると見え方が変わる
◇25敗以上でも勝ち越した投手がいる
1947年の白木義一郎は26勝25敗と勝ち越し、1946年の真田重蔵は25勝26敗、1952年の金田正一は24勝25敗だった。負け数だけを抽出した表でも、白星と黒星を合わせて読むと、そもそもシーズンの勝敗決定に多く関わっていた投手が並んでいる[1][15]。
勝率=勝利÷(勝利+敗北)。敗北/登板=敗北÷全登板数×100で、勝率と別物。救援登板も含まれるため「先発登板時の敗戦率」ではない。小数第3位、%は小数第1位までの四捨五入。井上佳明の1953年はNPB公式個人年度別成績にも26敗が掲載されている[1][4][6][12][16]。
◇井上佳明は44登板で26敗
1953年の国鉄・井上佳明は44登板で9勝26敗、防御率4.21、投球回202回2/3。TOP20相当の全21記録で、登板数44は最も少ない。26敗÷44登板で59.1%になり、歴代最多の中山の47.5%より高い。「敗北の合計数」と「出場した試合に対する敗北の多さ」で順位が変わる一例である[1][16]。
後に大投手となった選手の若い時期の黒星
◇長谷川良平は球団創設年に27敗
1950年の広島創設年、長谷川良平は56登板、27完投、348回1/3、15勝27敗。チームも138試合41勝96敗1分で最下位だった。長谷川は1952年にも11勝24敗で歴代17位タイに入り、一方1955年には30勝でリーグ最多勝を獲得。野球殿堂博物館は1950年のセ・リーグ最多敗戦27を記録として挙げつつ、通算197勝の「小さな大投手」と評価している[1][8][9][17]。
◇金田正一・米田哲也も歴代上位にいる
通算400勝の金田正一は1952年に24勝25敗、358投球回、269奪三振で歴代12位タイ。通算350勝の米田哲也も1959年に18勝24敗、331回1/3を投げている。通算勝利数の歴代1位と2位の投手まで、この「敗北数TOP20相当」に含まれている。長い投手人生と出場機会の多さは、勝利だけでなく敗北も蓄積させる[1][18][19][20]。
◇1972年の東尾修は25敗、のちに二度の最多勝
今回のランキングで最も新しい1972年の記録は、西鉄・東尾修の25敗。55登板で18勝25敗、309回2/3を投げた。西鉄は130試合47勝80敗3分の最下位。だが1975年と1983年には最多勝を獲得し、通算251勝を挙げた。1972年の25敗だけで投手生活全体を評価するのは適切ではない[1][10][21]。
シーズン敗北数を読む際の注意点
◇敗北・勝率・防御率は異なるもの
「敗北」は勝敗の付いた試合で敗戦投手として記録された数。「勝率」は勝利÷(勝利+敗北)、「防御率」は自責点に対する投球回数の指標。どれも別の側面を示す。失点が少なくても味方の援護がなければ敗戦投手になる可能性があり、救援で負けが付くこともある。歴代上位の投手には勝利数が多い選手や低防御率の選手も含まれる[1][4][6][12]。
◇歴代21記録の最新年度は1972年
24敗以上の歴代上位21記録は1939年から1972年に集中し、1973年以降のシーズンはこの範囲に入らない。古い時代ほど登板・完投・投球回が大きく、現代の分業・ローテーションと条件が異なる。同じ敗北数なら当時のチーム全体の勝敗、登板数、勝利数をあわせて読むことが大切である[1]。
◇集計条件と比較計算
NPB公式「敗北【シーズン記録】」の2025年度終了時点が基準。24敗以上の21記録を公式順位で掲載し、17位同順位の5件も省かなかった。勝率・敗北/登板・球団敗北比・倍率はNPB一次資料を基にした記事独自の計算値であり、NPBの公式ランキング項目ではない。過去の投球回の「.1」「.2」は1/3回・2/3回。資料確認日:2026年10月9日[1][2][3]。