記録の歴史
NPBシーズン投球回ランキングTOP20
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歴代のシーズン投球回上位には、現代では考えにくい登板数と完投数の記録が並ぶ。どれほど投げたのか、時代ごとの起用法と重ねて比較する。
概要
NPB一軍公式戦「投球回【シーズン記録】」の歴代上位20シーズンを対象にした。NPB公式の掲載基準は2025年度シーズン終了現在で、1リーグ時代の記録も含める。記録の数値・球団・年度・登板数は公式一覧による。2026年の未確定シーズン成績やMLB・ポストシーズンは含めない。
投球回は「何試合投げたか」とは別に、投手がアウトを取った量を数える記録。1回は3アウトで、「.1」は1/3回、「.2」は2/3回を意味する。近年の最多投球回と、戦前・戦後初期の大量投球には大きな隔たりがある。歴代順位に加えて、登板1回あたりの投球回、完投の多さ、当時のチームの試合数もあわせて確認する。
詳細
NPBシーズン投球回ランキングTOP20
NPB公式のシーズン投球回ランキングでは、1位は1942年の林安夫、541回1/3。2位は同じ年の野口二郎、527回1/3で、1位との差は14回ちょうど。TOP20すべてが400投球回以上となり、20位は1955年の金田正一。全20記録を同順位の省略なく掲載する。[1]。
順位・球団・年度・投球回・登板数はNPB公式のシーズン記録。投球回「.1」は1/3回、「.2」は2/3回であり、十進小数ではない。「回/登板」は投球回を登板数で割って小数第2位まで表示した参考値で、各試合に何回投げたかの単純平均。[1]。
関連記事チーム・試合1シーズンの最も高いチーム防御率投手陣が失点を重ね、1シーズンのチーム防御率が歴代最大(ワースト)となったのはどの球団か。投打の成績と当時のリーグ状況から振り返る。現代のシーズン最多投球回と比べる
◇2025年の最多投球回は200回に届かなかった
2025年の両リーグの最多投球回は、パ・リーグの伊藤大海が196回2/3、セ・リーグの村上頌樹が175回1/3だった。歴代1位の541回1/3は伊藤の約2.75倍、村上の約3.09倍にあたる。1942年と2025年では試合数や投手の起用法も違うため、これは数字の規模を示す参考比較であって選手能力の優劣ではない。[1][2][3]。
「歴代1位との差」は541回1/3から各記録を差し引いたもの。2025年パ最多とは344回2/3差、セ最多とは366回差。本文の倍率は541回1/3を比較対象の投球回で割り、小数第2位まで表示した。投球回の端数は1/3回単位で計算。[1][2][3]。
◇歴代TOP20だけの平均でも非常に大きい
上位20シーズンの投球回を単純平均すると約442.0回。歴代1位はこの平均より約99.3回多い。ただし、そもそも400回以上投げた投手だけの集団を平均した数値であり、歴代投手全体や近年の先発投手の「普通の値」ではない。[1]。
トップ2が同じ1942年に生まれた理由を数字から見る
◇林安夫は71登板のうち44完投
林安夫は1942年、朝日軍で71試合に登板し、541回1/3、44完投、12完封、32勝22敗、防御率1.01を記録した。この年は1リーグ制で、朝日軍は105試合を戦っている。つまりチームの試合の約67.6%に登板した計算で、年間の大部分に登場したことが分かる。[1][4]。
◇野口二郎は40勝、19完封を記録
2位の野口二郎も1942年に66登板、527回1/3を投げた。41完投、19完封、40勝17敗であり、この年の最多勝利と最多奪三振264を記録した。投球回の歴代1位・2位が同じ年に同時に生まれたのは、当時の投手起用の極端さを示す事実である。[1][4]。
1942年の公式成績を比較。両者とも同じ105試合制のシーズンだが、登板には先発だけでなく救援も含まれる。完投数÷登板数を「先発した試合の完投率」と解釈しない。[4]。
登板1回あたりの投球回でも違いが見える
◇登板数だけなら最も多いのは別の投手
今回のTOP20で登板数が最多なのは1961年の稲尾和久で78登板。しかし投球回は404回で18位にあたる。一方、歴代1位の林は71登板で541回1/3。登板回数を増やすだけでなく、1度の登板でどれほど長く投げたかも投球回の積み上がり方を左右した。[1][5]。
「回/登板」は歴代TOP20内で投球回を登板数で割った値の上位6件。先発と救援の比率、投手が受け持った打者数、延長戦、時代の規定などは補正していない。[1]。
◇1シーズンの完投数の記録も極端
NPBのシーズン完投記録は1947年の別所昭が47完投で歴代最多。この年は55登板、448回1/3で、投球回ランキングでは7位に入る。1942年の林、1947年の白木義一郎はそれぞれ44完投で歴代2位タイ。長い投球回の背後には、完投を重ねた起用法が見える。[1][6][7]。
記録が集中する時代
◇歴代20記録のうち15記録は1リーグ時代
NPBの公式シーズン投球回TOP20は1939年から1961年までに集中し、1950年の2リーグ制開始より前の記録が15件を占める。複数回登場する投手は野口二郎、真田重蔵、白木義一郎、稲尾和久の4人で、それぞれ2シーズン。通算ではなく「シーズン記録」を並べているため、同じ選手でも別年度は独立した記録になる。[1]。
◇同じ1947年にも3記録が並ぶ
1947年は別所昭(448回1/3)、白木義一郎(439回)、真田重蔵(424回)がTOP20に入る。この年の全チームの公式戦は119試合。別所は47完投で30勝、白木は44完投で26勝を記録した。戦後間もない時期も、多くの完投と登板を少数の投手が担っていた状況が分かる。[1][6][7]。
◇1リーグ制と2リーグ制を単純に並べる際の注意
1942年の1リーグ制は球団の試合数が105、1947年は119、1961年のセ・リーグは130、2025年は両リーグ各球団143試合だった。それでも投球回の歴代首位は1942年の記録であり、単に試合数が多かったからではない。投手の先発と救援の兼務、完投の多さなどを含む起用法の違いが大きい。ただし、試合数の相違を無視して現代と能力比較することはできない。[4][6][8][2][3]。
2リーグ制以降で最も投げたシーズン
◇1961年の権藤博は69登板、429回1/3
2リーグ制開始後のシーズン投球回で最大は1961年の中日・権藤博の429回1/3で、歴代全体では13位。この年は新人として69登板、32完投、12完封、35勝19敗、防御率1.70、310奪三振を記録した。最多勝・最優秀防御率・最多奪三振に加えて新人王、沢村賞も受賞している。[1][8][9]。
◇「権藤、権藤、雨、権藤」と呼ばれた
NPBの球跡巡りと野球殿堂博物館は、1961年の権藤の連投ぶりを「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉で紹介している。同年8月には月間99投球回を記録。429回1/3は2リーグ制後の年間最多で、単年の輝かしい成績と、過密な投球負担の両面を示している。[9][10]。
◇稲尾和久も1961年に404回、42勝
同じ1961年のパ・リーグでは稲尾和久が78登板、404投球回、42勝14敗、353奪三振を記録し、シーズン投球回の歴代18位に入る。また1959年にも75登板、402回1/3で19位に登場する。2リーグ制以降の5記録のうち、稲尾1人が2記録を占めている。[1][5][11]。
このランキングで分かること
シーズン投球回は、単に登板数や投手能力の順位ではなく、その時代に投手がどのくらいの仕事量を託されたかを示す。1942年のトップ2は500回を超え、1947年は1人で47完投した投手もいる。一方で1961年の権藤や稲尾は2リーグ制後の大量投球を残した。現代のシーズン最多が200回未満であることと並べると、数値の異常さに加えて起用法の歴史的な違いが伝わる。
◇集計条件と注意点
NPB一軍公式戦のシーズン投球回(2025年度シーズン終了現在)上位20記録を使用。1リーグ時代の記録を含む。年度・球団・順位・登板はNPB公式記録に準拠。投球回は1/3回単位で計算し、十進小数と混同しない。回/登板、歴代TOP20平均、現代との比較倍率は本記事の補助計算。現代との比較は試合数、先発・救援分業、投球管理などの違いを補正していない。確認日:2026年10月9日。[1][2][3]。