1球も投げずにセーブを記録した投手

投手が打者に1球も投げないのに、セーブがつくことはあるのか。実は、マウンドに立ちながら一度も打者と対戦せず、試合を締めた投手がいる。

一般的には?

セーブは、勝った試合を締めた救援投手に与えられる記録。勝利投手ではないこと、少なくとも1/3回を記録することに加え、登板時の点差・走者などの条件を満たす必要がある[1]。ただし、最低投球数の決まりはない。牽制球は打者への投球数に数えられず、登板直後に走者を牽制でアウトにして試合を終えれば、投球数0でも1/3回とセーブが記録されうる[1][3]。

答え

0球セーブを記録した投手金城基泰/三浦政基

答えは金城基泰と三浦政基。ともに南海ホークスの救援投手で、別々の試合で打者に1球も投げず、牽制による最後のアウトだけでセーブを記録した[2][3]。

年
1980年 1981年
選手
金城基泰(1980年) 三浦政基(1981年)
チーム
南海ホークス(1980年) 南海ホークス(1981年)
カテゴリ
投手

詳細

◇最初の0球セーブ

1980年10月2日、大阪球場の南海対阪急戦。南海は5対1で9回表を迎えたが、2点を返され5対3となり、なお2死一、三塁。先発・森口益光に代わって金城基泰が登板した。打席には簑田浩二、一塁走者は福本豊だった[2][3]。

金城は一度牽制球を投げたあと、次の動作でスタートを切った福本に対して二塁へ送球。河埜敬幸が一、二塁間で福本にタッチし、3アウトで試合終了。打者・簑田への投球はなく、投球数0、対戦打者0、投球回1/3でセーブが付いた[2][3]。

ただし終わり方も異例だった。阪急の梶本隆夫監督は牽制動作がボークに当たるとして抗議。阪急側が提訴を条件に試合成立を認めたため、試合終了が確定したのはアウトの宣告から55分後だった。金城はこの年、13セーブを記録し、19セーブポイントで最優秀救援投手となった[2][4]。

◇翌年も同じ球場で再現

1981年6月4日、大阪球場の南海対日本ハム戦。南海が8対7と1点リードした9回表2死一塁で、三浦政基が救援登板した。日本ハムの一塁走者は井上晃二だった[3]。

三浦は打者への初球を投げる前に、一塁走者・井上を牽制球でアウトにしてゲームセット。こちらも投球数0、対戦打者0、投球回1/3でセーブを記録した。2年連続、しかも同じ南海の投手が達成することになった[3][5]。

両試合とも最後のアウトは打者ではなく走者。0球という数字は「投手が球を投げていない」という意味ではなく、「打者に向けた投球がない」という意味だ。走者への牽制送球は行われている[2][3]。

◇幻の0球勝利

0球勝利も理論上は可能だ。同点かビハインドの局面で救援登板し、初球前の牽制などで最後のアウトを取り、直後の味方の攻撃で勝ち越してそのまま勝利すれば、投球数0の勝利投手になりうる。ただし、NPBの公式戦で達成した例は確認されていない[3][7]。

その寸前まで近づいたのが、2024年7月9日の広島対巨人戦(マツダスタジアム)。3対3の8回表2死一塁で広島の3番手・黒原拓未が登板し、一塁走者・門脇誠を初球前の牽制で誘い出し、盗塁死で3アウトにした。黒原は投球数0、投球回1/3、対戦打者0のまま降板。直後に広島が勝ち越せば0球勝利の可能性があったが、得点できず、試合も3対5で敗れた[6][7]。

記録の範囲はNPBの一軍公式戦。セーブが導入された1974年以降の「0球セーブ」として確認されるのは上記2例。セーブ制度の導入前にも、1949年9月18日に巨人・藤本英雄が打者へ投球せず最後のアウトを取った例が紹介されているが、当時の公式な「セーブ」ではないため、達成者に含めない[2]。資料確認日:2026年10月8日。

何がすごいのか

  • セーブは0球でも成立し、いずれも牽制で走者をアウトにして試合が終わった。
  • 公式セーブ導入後の達成者2人は、どちらも南海ホークス所属だった。
  • 一方の0球勝利は、2024年に現実味を帯びたものの実現しなかった。

出典