詳細
◇同じ19歳でも異なる3人の最多勝
沢村は1936年秋に15登板で13勝、宅和は1954年に60登板で26勝、松坂は1999年に25登板で16勝。3人が投げた時代もシーズンの試合数も異なる。各年度の個人成績とリーグ順位を比べる[1][2][3][4][5][6]。
| 選手名 | 生年月日 | 年・季節 | 球団 | 年末年齢 | 勝利 |
|---|---|---|---|---|---|
| 沢村栄治 | 1917年2月1日 | 1936年秋 | 東京巨人 | 19歳 | 13 |
| 宅和本司 | 1935年7月18日 | 1954年 | 南海 | 19歳 | 26 |
| 松坂大輔 | 1980年9月13日 | 1999年 | 西武 | 19歳 | 16 |
年齢は各年12月31日時点。宅和(7月18日生まれ)と松坂(9月13日生まれ)はシーズン開始時18歳、途中で19歳となった。沢村は1936年秋の開催期間を通じて19歳だった[1][3][5]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 完投 | 完封勝 | 無四球 | 対打者 | 投球回 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 15 | 13 | 2 | .867 | 10 | 3 | 0 | 483 | 120 1/3 |
| 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 63 | 0 | 58 | 2 | 112 | 0 | 1 | 24 | 14 | 1.05 |
1936年秋の1リーグ。3位以内の同順位を全員掲載。防御率はNPB公式掲載値を採用し、3位の石田は1.406と3桁で掲載される。勝利・奪三振は二次集計も参照し、勝利数または奪三振数で並べた[2][8]。
沢村は13勝2敗、勝率.867。巨人が1936年秋に挙げた18勝のうち13勝、約72.2%を占めた。春夏の1勝と年度優勝決定戦の2勝は別集計のため加えない。防御率1位は景浦将、奪三振1位は内藤幸三だった[1][2]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 完投 | 完封勝 | 無四球 | 対打者 | 投球回 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 60 | 26 | 9 | .743 | 15 | 5 | 2 | 1273 | 329 2/3 |
| 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 207 | 9 | 105 | 14 | 275 | 4 | 0 | 68 | 58 | 1.58 |
1954年パ・リーグ。最多勝は田中文雄と同数。主要3部門の3位以内を掲載し、防御率はNPB公式値を採用した。最多奪三振は現在のNPBのリーグ・リーダーズに基づく表記で、当時の正式表彰の有無とは区別する[4][17][18]。
宅和は26勝で田中文雄と並び、最優秀防御率(1.58)と奪三振1位(275個)も記録。60登板・329回3分の2は、松坂の25登板・180回より149回3分の2多い。高卒1年目で新人王にも選ばれた[3][4]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 完投 | 完封勝 | 無四球 | 対打者 | 投球回 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 25 | 16 | 5 | .762 | 6 | 2 | 0 | 743 | 180 |
| 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 124 | 14 | 87 | 8 | 151 | 5 | 2 | 55 | 52 | 2.60 |
1999年パ・リーグ。勝利2位は14勝の3人を全員掲載した。防御率は資格を満たす投手、勝利・奪三振は規定投球回未到達者も対象。以下、勝利の単位は勝、奪三振は個。各年の表は別々のリーグ成績である[6][19][20]。
松坂は16勝5敗。西口文也、篠原貴行、黒木知宏の各14勝を2勝上回った。防御率2.60は3位、151奪三振は4位で、最多勝と新人王を受賞した。最優秀防御率・最多奪三振の2部門は工藤公康が制した[5][6][19][20]。
◇勝利数だけでは決まらなかった1936年秋の優勝
1936年秋は6大会の勝ち点合計で優勝を争い、巨人と大阪タイガースが2.5点で並んだ。このため12月に年度優勝決定戦を実施。秋の勝利数はタイガースの24勝が巨人の18勝を上回ったが、決定戦を制した巨人が初代王者となった[2][8][10]。
| 球団 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝ち点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 東京巨人 | 27 | 18 | 9 | 0 | 2.5 | 1.40 |
| 大阪タイガース | 31 | 24 | 6 | 1 | 2.5 | 1.79 |
優勝決定戦前の秋の集計。全7球団のうち、勝ち点で並んだ2球団を抜粋。年度優勝決定戦の勝敗は含めない[2][8]。
◇宅和と松坂のチームは2位
1954年の南海は91勝49敗、勝率.650。西鉄の90勝47敗3分、勝率.657に0.5ゲーム差で及ばなかった。1999年の西武は75勝59敗1分、勝率.560でダイエーに4.0ゲーム差の2位。宅和の26勝は南海のチーム91勝の約28.6%、松坂の16勝は西武75勝の約21.3%に当たる[4][6]。
◇沢村は初のノーヒットノーランも達成
1936年秋の沢村は、9月25日のタイガース戦でプロ野球公式戦初のノーヒットノーランを達成した。12月の年度優勝決定戦にも3試合連続で登板し、巨人の初代王者決定に貢献した[8][9][10][11][12][13]。
◇9月25日に1対0のノーヒットノーラン
1936年9月25日、甲子園でのタイガース戦。沢村と若林忠志が投げ合い、8回まで0対0が続いた。巨人は9回、失策からつくった好機で山本栄一郎が代打の適時打を放ち先制。沢村は裏の攻撃も抑え、9回無安打、7奪三振、4四球の完封勝利を挙げた。プロ野球公式戦で最初のノーヒットノーランだった[9][11]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 6 | 1 |
| タイガース | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
1936年9月25日、阪神甲子園球場。スコアと安打・失策は二次集計、達成日・球場・対戦相手・1対0・四球数・奪三振数はNPB公式一覧でも照合した[9][11]。
◇12月の優勝決定戦は3連投
12月9~11日、洲崎球場で行われた年度優勝決定3連戦に沢村はすべて登板した。第1戦は完投勝利、第2戦は6回を投げて敗戦、第3戦は5回から救援して5回無失点。3試合で計20回、19奪三振、2勝1敗を記録し、巨人は最終戦を4対2で制して優勝した[10][12][13][22]。
| 月日 | 試合 | 巨人の結果 | 沢村の登板 | 投球回 | 奪三振 | 自責点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 12月9日 | 第1戦 | 6対3 勝利 | 先発完投・勝利 | 9 | 11 | 3 |
| 12月10日 | 第2戦 | 3対5 敗戦 | 先発・敗戦 | 6 | 3 | 1 |
| 12月11日 | 第3戦 | 4対2 勝利 | 救援・勝利 | 5 | 5 | 0 |
1936年度優勝決定戦は一軍公式戦の個人年度別成績と別集計。ここでの2勝を加えて「最多勝15勝」とはしない。3試合とも先発完投した、という意味でもない[1][12][13][22]。
◇宅和は野村克也と同期だった
宅和は門司東高から南海へ入り、野村克也、皆川睦雄と同期だった。日刊スポーツの本人取材では、野村と同じ寮の部屋で過ごした時期を振り返っている。新人王は、同じ高卒新人で20勝を挙げた阪急・梶本隆夫を抑えて受賞した[15]。
◇松坂は初登板とイチロー戦で鮮烈な印象を残した
松坂の初登板初勝利は1999年4月7日、日本ハム2回戦、東京ドーム。8回5安打、9奪三振、3四球、2失点で、西武は5対2で勝った。2失点は8回の小笠原道大の2点本塁打。初回には片岡篤史から空振り三振を奪い、球団も後年、印象的な場面として紹介している[16][21]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 16 | 0 |
| 日本ハム | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 5 | 0 |
1999年4月7日、日本ハム対西武2回戦、東京ドーム。松坂は8回で降板し、完投勝利ではない。イニング別スコアと投手の詳細成績は二次集計による[21]。
5月16日のオリックス戦ではイチローから3打席連続三振を奪い、8回までに13奪三振を記録した。「自信が確信に変わった」という松坂の言葉が伝えられる試合である[16]。
◇3人とも翌シーズンに最多勝を連続獲得
沢村は1937年春に24勝、宅和は1955年に24勝、松坂は2000年に14勝で連続して最多勝を獲得した。松坂は2001年も15勝で、入団から3年連続。沢村は兵役による不在期間を挟み、宅和は最初の2年間で50勝、松坂はその後も長く登板を重ねた[1][3][5][7][14]。
| 年・季節 | 球団 | 年末年齢 | 登板 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1936秋 | 巨人 | 19歳 | 15 | 13 | 2 | 120 1/3 | 112 | 1.05 |
| 1937春 | 巨人 | 20歳 | 30 | 24 | 4 | 244 | 196 | 0.81 |
| 1937秋 | 巨人 | 20歳 | 20 | 9 | 6 | 140 | 129 | 2.38 |
| 1940 | 巨人 | 23歳 | 12 | 7 | 1 | 79 1/3 | 31 | 2.59 |
| 1941 | 巨人 | 24歳 | 20 | 9 | 5 | 153 2/3 | 73 | 2.05 |
| 1943 | 巨人 | 26歳 | 4 | 0 | 3 | 11 | 2 | 10.64 |
NPB一軍公式戦。年齢は各年12月31日時点。沢村の春と秋は別シーズンとして掲載する[1]。
1937年春は30登板で24勝4敗、244回、196奪三振、防御率0.81。最多勝だけでなく最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振でも1位となり、初のMVPに選ばれた。同年5月1日にはタイガース相手に2度目のノーヒットノーランも達成している[9][14]。
1938年・1939年には公式戦の登板がなく、兵役から復帰した1940年に7勝。7月6日の名古屋戦では3度目のノーヒットノーランを記録した。最後の公式戦出場年は1943年。1944年12月2日に27歳で亡くなり、通算は63勝22敗、防御率1.74。1959年に野球殿堂入りしている[1][9][23]。
| 年・季節 | 球団 | 年末年齢 | 登板 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954 | 南海 | 19歳 | 60 | 26 | 9 | 329 2/3 | 275 | 1.58 |
| 1955 | 南海 | 20歳 | 58 | 24 | 11 | 244 1/3 | 205 | 2.42 |
| 1956 | 南海 | 21歳 | 24 | 6 | 5 | 78 2/3 | 44 | 2.28 |
| 1957 | 南海 | 22歳 | 5 | 0 | 0 | 9 2/3 | 6 | 8.10 |
| 1958 | 南海 | 23歳 | 11 | 0 | 0 | 24 2/3 | 11 | 4.32 |
| 1959 | 南海 | 24歳 | 1 | 0 | 1 | 3 | 1 | 3.00 |
| 1960 | 近鉄 | 25歳 | 6 | 0 | 0 | 11 | 5 | 7.36 |
| 1961 | 近鉄 | 26歳 | 3 | 0 | 0 | 8 1/3 | 1 | 6.00 |
NPB一軍公式戦の主な年。年齢は各年12月31日時点。1957年など一部年度は、NPB公式掲載の投球回・自責点から防御率を再計算した値と公式表示が一致しないため、表示値を保持した(例:1957年は9回2/3、自責点9なら約8.38、公式表示は8.10)。原因は未確認[3]。
1955年も58登板、244回3分の1、24勝11敗で最多勝。新人年の26勝と合わせ、最初の2年で50勝を挙げた。南海もこの年はリーグ優勝したが、日本シリーズは巨人に敗れた[3][7][15]。
1956年は6勝、その後は1957年以降に勝利を記録せず、1960年から近鉄へ移った。通算168登板、56勝26敗、防御率2.29。最初の2年間の50勝が通算勝利の約89.3%を占める。日刊スポーツの本人取材でも、当時の登板数の多さに触れている[3][15]。
| 年・季節 | 球団 | 年末年齢 | 登板 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | 西武 | 19歳 | 25 | 16 | 5 | 180 | 151 | 2.60 |
| 2000 | 西武 | 20歳 | 27 | 14 | 7 | 167 2/3 | 144 | 3.97 |
| 2001 | 西武 | 21歳 | 33 | 15 | 15 | 240 1/3 | 214 | 3.60 |
| 2003 | 西武 | 23歳 | 29 | 16 | 7 | 194 | 215 | 2.83 |
| 2004 | 西武 | 24歳 | 23 | 10 | 6 | 146 | 127 | 2.90 |
| 2005 | 西武 | 25歳 | 28 | 14 | 13 | 215 | 226 | 2.30 |
| 2006 | 西武 | 26歳 | 25 | 17 | 5 | 186 1/3 | 200 | 2.13 |
NPB一軍公式戦の主な年。年齢は各年12月31日時点[5]。
2000年は14勝で2年連続、2001年は15勝で3年連続の最多勝となった。3年目は15敗も記録して勝率.500だったが、最多勝は勝率の高さではなく勝利数で決まるため、タイトルを獲得した[5][7]。
松坂は2003年と2004年に最優秀防御率、2005年に226奪三振を記録。2006年には17勝5敗、防御率2.13を残した。1999年の16勝は本人のシーズン最多勝利数ではないが、最多勝を最も若くして獲得した年である[5]。
集計範囲と年齢の扱い
対象はNPB一軍公式戦のシーズン最多勝で、1リーグ時代とセ・パ両リーグを含む。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは含めない。歴代受賞者一覧と公式年度別成績・生年月日を照合し、受賞年12月31日時点の満年齢で最小の19歳を抽出した。3人を生後の日数で順位付けした結果ではない[1][2][3][4][5][6][7]。
1936年春夏と秋、1937年春はそれぞれ独立した集計期間であり、通常の年間シーズンと試合数が違う。1936年度優勝決定戦の個人成績も別に扱う。過去の投手成績は原則NPB公式掲載値を採用し、当時の表彰名と現在のリーグ・リーダーズの項目を区別する[1][2][7][8][14]。
2026年の最多勝はセ・リーグが髙橋遥人の16勝、パ・リーグが北山亘基とエスピノーザの各13勝。19歳の受賞者は増えていない。試合別の細かな経過は二次集計も使用した。資料確認日:2026年10月21日[24][25]。