最年少で最多勝を獲得した投手は?

シーズンで最もチームを勝ちに導いた投手の栄冠。プロ野球の歴史で、そのタイトルを最も若くして獲得したのは誰だったのだろうか。

一般的には?

最多勝は、シーズンのリーグ最多勝利を記録した投手に与えられる。規定投球回への到達は条件ではなく、同じ勝利数なら複数人が並ぶ。本記事では1リーグ時代も含め、受賞年の12月31日時点の満年齢で比較する[7]。

答え

最年少最多勝投手の選手名と年齢(年末満年齢)沢村栄治/宅和本司/松坂大輔 各19歳

最年少は沢村栄治、宅和本司、松坂大輔の3人で、いずれも年末満年齢19歳。沢村は1936年秋の東京巨人で13勝、宅和は1954年の南海で26勝、松坂は1999年の西武で16勝を挙げた。最初の達成者は沢村で、宅和と松坂は高卒1年目だった[1][2][3][4][5][6][7]。

年
1936年 1954年 1999年
選手
沢村栄治(1936年秋) 宅和本司(1954年) 松坂大輔(1999年)
チーム
東京巨人(1936年秋) 南海ホークス(1954年) 西武ライオンズ(1999年)
カテゴリ
投手

詳細

◇同じ19歳でも異なる3人の最多勝

沢村は1936年秋に15登板で13勝、宅和は1954年に60登板で26勝、松坂は1999年に25登板で16勝。3人が投げた時代もシーズンの試合数も異なる。各年度の個人成績とリーグ順位を比べる[1][2][3][4][5][6]。

年齢と該当シーズン
選手名生年月日年・季節球団年末年齢勝利
沢村栄治1917年2月1日1936年秋東京巨人19歳13
宅和本司1935年7月18日1954年南海19歳26
松坂大輔1980年9月13日1999年西武19歳16

年齢は各年12月31日時点。宅和(7月18日生まれ)と松坂(9月13日生まれ)はシーズン開始時18歳、途中で19歳となった。沢村は1936年秋の開催期間を通じて19歳だった[1][3][5]。

沢村栄治の1936年秋
登板勝利敗北勝率完投完封勝無四球対打者投球回
15132.8671030483120 1/3
被安打被本塁打与四球与死球奪三振暴投ボーク失点自責点防御率
6305821120124141.05

1936年秋の1リーグ。3位以内の同順位を全員掲載。防御率はNPB公式掲載値を採用し、3位の石田は1.406と3桁で掲載される。勝利・奪三振は二次集計も参照し、勝利数または奪三振数で並べた[2][8]。

沢村は13勝2敗、勝率.867。巨人が1936年秋に挙げた18勝のうち13勝、約72.2%を占めた。春夏の1勝と年度優勝決定戦の2勝は別集計のため加えない。防御率1位は景浦将、奪三振1位は内藤幸三だった[1][2]。

宅和本司の1954年
登板勝利敗北勝率完投完封勝無四球対打者投球回
60269.74315521273329 2/3
被安打被本塁打与四球与死球奪三振暴投ボーク失点自責点防御率
2079105142754068581.58

1954年パ・リーグ。最多勝は田中文雄と同数。主要3部門の3位以内を掲載し、防御率はNPB公式値を採用した。最多奪三振は現在のNPBのリーグ・リーダーズに基づく表記で、当時の正式表彰の有無とは区別する[4][17][18]。

宅和は26勝で田中文雄と並び、最優秀防御率(1.58)と奪三振1位(275個)も記録。60登板・329回3分の2は、松坂の25登板・180回より149回3分の2多い。高卒1年目で新人王にも選ばれた[3][4]。

松坂大輔の1999年
登板勝利敗北勝率完投完封勝無四球対打者投球回
25165.762620743180
被安打被本塁打与四球与死球奪三振暴投ボーク失点自責点防御率
124148781515255522.60

1999年パ・リーグ。勝利2位は14勝の3人を全員掲載した。防御率は資格を満たす投手、勝利・奪三振は規定投球回未到達者も対象。以下、勝利の単位は勝、奪三振は個。各年の表は別々のリーグ成績である[6][19][20]。

松坂は16勝5敗。西口文也、篠原貴行、黒木知宏の各14勝を2勝上回った。防御率2.60は3位、151奪三振は4位で、最多勝と新人王を受賞した。最優秀防御率・最多奪三振の2部門は工藤公康が制した[5][6][19][20]。

◇勝利数だけでは決まらなかった1936年秋の優勝

1936年秋は6大会の勝ち点合計で優勝を争い、巨人と大阪タイガースが2.5点で並んだ。このため12月に年度優勝決定戦を実施。秋の勝利数はタイガースの24勝が巨人の18勝を上回ったが、決定戦を制した巨人が初代王者となった[2][8][10]。

球団試合勝利敗北引分勝ち点防御率
東京巨人2718902.51.40
大阪タイガース3124612.51.79

優勝決定戦前の秋の集計。全7球団のうち、勝ち点で並んだ2球団を抜粋。年度優勝決定戦の勝敗は含めない[2][8]。

◇宅和と松坂のチームは2位

1954年の南海は91勝49敗、勝率.650。西鉄の90勝47敗3分、勝率.657に0.5ゲーム差で及ばなかった。1999年の西武は75勝59敗1分、勝率.560でダイエーに4.0ゲーム差の2位。宅和の26勝は南海のチーム91勝の約28.6%、松坂の16勝は西武75勝の約21.3%に当たる[4][6]。

◇沢村は初のノーヒットノーランも達成

1936年秋の沢村は、9月25日のタイガース戦でプロ野球公式戦初のノーヒットノーランを達成した。12月の年度優勝決定戦にも3試合連続で登板し、巨人の初代王者決定に貢献した[8][9][10][11][12][13]。

◇9月25日に1対0のノーヒットノーラン

1936年9月25日、甲子園でのタイガース戦。沢村と若林忠志が投げ合い、8回まで0対0が続いた。巨人は9回、失策からつくった好機で山本栄一郎が代打の適時打を放ち先制。沢村は裏の攻撃も抑え、9回無安打、7奪三振、4四球の完封勝利を挙げた。プロ野球公式戦で最初のノーヒットノーランだった[9][11]。

チーム123456789RHE
巨人000000001161
タイガース000000000003

1936年9月25日、阪神甲子園球場。スコアと安打・失策は二次集計、達成日・球場・対戦相手・1対0・四球数・奪三振数はNPB公式一覧でも照合した[9][11]。

◇12月の優勝決定戦は3連投

12月9~11日、洲崎球場で行われた年度優勝決定3連戦に沢村はすべて登板した。第1戦は完投勝利、第2戦は6回を投げて敗戦、第3戦は5回から救援して5回無失点。3試合で計20回、19奪三振、2勝1敗を記録し、巨人は最終戦を4対2で制して優勝した[10][12][13][22]。

月日試合巨人の結果沢村の登板投球回奪三振自責点
12月9日第1戦6対3 勝利先発完投・勝利9113
12月10日第2戦3対5 敗戦先発・敗戦631
12月11日第3戦4対2 勝利救援・勝利550

1936年度優勝決定戦は一軍公式戦の個人年度別成績と別集計。ここでの2勝を加えて「最多勝15勝」とはしない。3試合とも先発完投した、という意味でもない[1][12][13][22]。

◇宅和は野村克也と同期だった

宅和は門司東高から南海へ入り、野村克也、皆川睦雄と同期だった。日刊スポーツの本人取材では、野村と同じ寮の部屋で過ごした時期を振り返っている。新人王は、同じ高卒新人で20勝を挙げた阪急・梶本隆夫を抑えて受賞した[15]。

◇松坂は初登板とイチロー戦で鮮烈な印象を残した

松坂の初登板初勝利は1999年4月7日、日本ハム2回戦、東京ドーム。8回5安打、9奪三振、3四球、2失点で、西武は5対2で勝った。2失点は8回の小笠原道大の2点本塁打。初回には片岡篤史から空振り三振を奪い、球団も後年、印象的な場面として紹介している[16][21]。

チーム123456789RHE
西武0100400005160
日本ハム000000020250

1999年4月7日、日本ハム対西武2回戦、東京ドーム。松坂は8回で降板し、完投勝利ではない。イニング別スコアと投手の詳細成績は二次集計による[21]。

5月16日のオリックス戦ではイチローから3打席連続三振を奪い、8回までに13奪三振を記録した。「自信が確信に変わった」という松坂の言葉が伝えられる試合である[16]。

◇3人とも翌シーズンに最多勝を連続獲得

沢村は1937年春に24勝、宅和は1955年に24勝、松坂は2000年に14勝で連続して最多勝を獲得した。松坂は2001年も15勝で、入団から3年連続。沢村は兵役による不在期間を挟み、宅和は最初の2年間で50勝、松坂はその後も長く登板を重ねた[1][3][5][7][14]。

沢村は翌春に24勝とMVP
年・季節球団年末年齢登板勝利敗北投球回奪三振防御率
1936秋巨人19歳15132120 1/31121.05
1937春巨人20歳302442441960.81
1937秋巨人20歳20961401292.38
1940巨人23歳127179 1/3312.59
1941巨人24歳2095153 2/3732.05
1943巨人26歳40311210.64

NPB一軍公式戦。年齢は各年12月31日時点。沢村の春と秋は別シーズンとして掲載する[1]。

1937年春は30登板で24勝4敗、244回、196奪三振、防御率0.81。最多勝だけでなく最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振でも1位となり、初のMVPに選ばれた。同年5月1日にはタイガース相手に2度目のノーヒットノーランも達成している[9][14]。

1938年・1939年には公式戦の登板がなく、兵役から復帰した1940年に7勝。7月6日の名古屋戦では3度目のノーヒットノーランを記録した。最後の公式戦出場年は1943年。1944年12月2日に27歳で亡くなり、通算は63勝22敗、防御率1.74。1959年に野球殿堂入りしている[1][9][23]。

宅和は2年目までに50勝
年・季節球団年末年齢登板勝利敗北投球回奪三振防御率
1954南海19歳60269329 2/32751.58
1955南海20歳582411244 1/32052.42
1956南海21歳246578 2/3442.28
1957南海22歳5009 2/368.10
1958南海23歳110024 2/3114.32
1959南海24歳101313.00
1960近鉄25歳6001157.36
1961近鉄26歳3008 1/316.00

NPB一軍公式戦の主な年。年齢は各年12月31日時点。1957年など一部年度は、NPB公式掲載の投球回・自責点から防御率を再計算した値と公式表示が一致しないため、表示値を保持した(例:1957年は9回2/3、自責点9なら約8.38、公式表示は8.10)。原因は未確認[3]。

1955年も58登板、244回3分の1、24勝11敗で最多勝。新人年の26勝と合わせ、最初の2年で50勝を挙げた。南海もこの年はリーグ優勝したが、日本シリーズは巨人に敗れた[3][7][15]。

1956年は6勝、その後は1957年以降に勝利を記録せず、1960年から近鉄へ移った。通算168登板、56勝26敗、防御率2.29。最初の2年間の50勝が通算勝利の約89.3%を占める。日刊スポーツの本人取材でも、当時の登板数の多さに触れている[3][15]。

松坂は入団から3年連続最多勝
年・季節球団年末年齢登板勝利敗北投球回奪三振防御率
1999西武19歳251651801512.60
2000西武20歳27147167 2/31443.97
2001西武21歳331515240 1/32143.60
2003西武23歳291671942152.83
2004西武24歳231061461272.90
2005西武25歳2814132152262.30
2006西武26歳25175186 1/32002.13

NPB一軍公式戦の主な年。年齢は各年12月31日時点[5]。

2000年は14勝で2年連続、2001年は15勝で3年連続の最多勝となった。3年目は15敗も記録して勝率.500だったが、最多勝は勝率の高さではなく勝利数で決まるため、タイトルを獲得した[5][7]。

松坂は2003年と2004年に最優秀防御率、2005年に226奪三振を記録。2006年には17勝5敗、防御率2.13を残した。1999年の16勝は本人のシーズン最多勝利数ではないが、最多勝を最も若くして獲得した年である[5]。

集計範囲と年齢の扱い

対象はNPB一軍公式戦のシーズン最多勝で、1リーグ時代とセ・パ両リーグを含む。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは含めない。歴代受賞者一覧と公式年度別成績・生年月日を照合し、受賞年12月31日時点の満年齢で最小の19歳を抽出した。3人を生後の日数で順位付けした結果ではない[1][2][3][4][5][6][7]。

1936年春夏と秋、1937年春はそれぞれ独立した集計期間であり、通常の年間シーズンと試合数が違う。1936年度優勝決定戦の個人成績も別に扱う。過去の投手成績は原則NPB公式掲載値を採用し、当時の表彰名と現在のリーグ・リーダーズの項目を区別する[1][2][7][8][14]。

2026年の最多勝はセ・リーグが髙橋遥人の16勝、パ・リーグが北山亘基とエスピノーザの各13勝。19歳の受賞者は増えていない。試合別の細かな経過は二次集計も使用した。資料確認日:2026年10月21日[24][25]。

何がすごいのか

  • 1936年秋の沢村、1954年の宅和、1999年の松坂が、年末満年齢19歳の最多勝に並ぶ[1][2][3][4][5][6]。
  • 同じ最年少年齢でも、沢村13勝、宅和26勝、松坂16勝。宅和は最優秀防御率と奪三振1位も記録した[2][4][6]。
  • 3人とも次のシーズンも最多勝。松坂はさらに3年目まで連続受賞した[7][14]。

出典