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◇233奪三振は2位に86個差
金田の233奪三振は、2位の杉下茂(名古屋)の147個を86個、3位の別所毅彦(巨人)の131個を102個上回った。同年の金田は22勝21敗、防御率2.83。最多勝と最優秀防御率は別の投手が獲得した[1][2][7][8]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 完投 | 完封勝 | 無四球 | 対打者 | 投球回 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 56 | 22 | 21 | .512 | 25 | 4 | 0 | 1488 | 350 |
| 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 257 | 22 | 190 | 8 | 233 | 3 | 3 | 159 | 110 | 2.83 |
1951年セ・リーグの上位3位。防御率は当時の資格条件を満たす投手、勝利・奪三振は規定投球回未到達者も対象。勝利は勝、奪三振は個。防御率は二次集計と一部表示が異なるためNPB公式掲載値を採用した。金田の行を赤字太字で示す[2][7][8]。
◇奪三振は1位でも勝利は3位
金田と杉下の奪三振差は233−147=86個。最多勝は28勝の杉下、最優秀防御率と新人王は松田清で、金田は22勝の勝利3位、防御率2.83の7位だった。金田は前年に公式戦デビューしており、この年は新人のシーズンではない[1][2][7][8]。
◇三振の多さとともに190四球も残る
1951年の奪三振率は233×9÷350=約5.99。前年の1950年は164回2/3で143奪三振、奪三振率は約7.82だった。奪三振総数が90個増えた一方、9回当たりの奪三振数は前年の方が多い。投球回が185回1/3増えたことが、年間233個に大きく関わっていた。1951年の与四球は190個、与死球は8個だった[1]。
国鉄の498奪三振のうち、金田の233個は約46.8%を占める。投球回もチーム945回3分の2のうち350回、約37.0%だった。先発44、救援12の両方で登板し、創設2年目の投手陣で大きな比重を担っていた[2][8]。
◇国鉄は7球団中5位
チームは46勝59敗2分、勝率.438。開幕直後には首位に立った時期もあったが、最終的には巨人に31.5ゲーム差の5位だった。金田の22勝はチーム勝利の約47.8%。2桁勝利は金田のほかに高橋輝の10勝があった[2][6]。
| 順位 | 球団 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 巨人 | 114 | 79 | 29 | 6 | .731 | ― | 2.62 |
| 2 | 名古屋 | 113 | 62 | 48 | 3 | .564 | 18.0 | 3.47 |
| 3 | 大阪 | 116 | 61 | 52 | 3 | .540 | 20.5 | 3.26 |
| 4 | 松竹 | 115 | 53 | 57 | 5 | .482 | 27.0 | 4.41 |
| 5 | 国鉄 | 107 | 46 | 59 | 2 | .438 | 31.5 | 3.96 |
| 6 | 大洋 | 108 | 40 | 64 | 4 | .385 | 37.0 | 4.84 |
| 7 | 広島 | 99 | 32 | 64 | 3 | .333 | 41.0 | 4.62 |
1951年セ・リーグ最終成績。球団名は当時の名称を略記。大阪は大阪タイガース、名古屋は名古屋ドラゴンズ。国鉄は現在の東京ヤクルトスワローズの前身である[2][6]。
国鉄はチーム打率.2454でリーグ6位、本塁打36本は最少、総得点は389だった。金田がリーグ最多の三振を奪った一方、チームは7球団中5位に終わった[2]。
◇ノーヒットノーランは4奪三振で達成
9月5日の大阪タイガース戦で、金田は9回無安打、4奪三振、5四球。国鉄は9回裏の1点でサヨナラ勝ちし、金田は18歳1カ月で最年少ノーヒットノーランを達成した。また、この年には新球場の開場試合で完投勝利を挙げ、初開催のオールスターにも登板した[6][9][10][11][12][13]。
◇5月5日は新球場で完投勝利
1951年5月5日、武蔵野グリーンパークでの名古屋3回戦。国鉄は初回に2点、2回に3点を先行し、金田が9回6安打、5奪三振、6四球で完投して6対3の勝利を収めた。金田は5勝3敗に。球場の開場試合で勝ち、国鉄は首位へ返り咲いた[6][11]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名古屋 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 5 |
| 国鉄 | 2 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | X | 6 | 8 | 1 |
1951年5月5日、国鉄対名古屋3回戦、武蔵野グリーンパーク。イニング別スコア、安打・失策、金田の試合別投手成績は二次集計。Xは後攻の最終回の攻撃が不要だったことを示す[11]。
◇17歳で初開催のオールスターに登板
この年に始まったオールスターには、国鉄から金田が選ばれた。7月4日の第1戦は3回1安打、3奪三振で無失点。7月7日の第2戦でも1回無安打、2奪三振で無失点だった。18歳の誕生日は8月1日なので、この2試合ではまだ17歳だった[1][6][12][13]。
| 月日 | 球場 | 投球回 | 被安打 | 与四球 | 奪三振 | 失点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 7月4日 | 甲子園 | 3 | 1 | 1 | 3 | 0 |
| 7月7日 | 後楽園 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 |
1951年度オールスター第1戦・第2戦の金田の成績。計4回、5奪三振、無失点。オールスターの奪三振は、公式戦の233個へ加算しない[12][13]。
◇9月5日に最年少ノーヒットノーラン
大阪球場での大阪タイガース15回戦。金田と藤村隆男の投げ合いは8回まで0対0で進んだ。金田が9回表まで無安打で抑えたあと、国鉄は9回裏に土屋五郎の安打と犠打で好機をつくり、藤田宗一の右前適時打でサヨナラ勝ち。金田は18勝15敗となった[10]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大阪 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 国鉄 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1X | 1 | 5 | 0 |
1951年9月5日、国鉄対大阪15回戦、大阪球場。Xはサヨナラによる試合終了。スコア・試合別打撃成績は二次集計。達成日、相手、球場、1対0はNPB公式一覧でも照合した[9][10]。
金田は121球、32打者、9回無安打、5四球、4奪三振。NPBは18歳1カ月での最年少ノーヒットノーランとして掲載している。生年月日から計算すると18歳35日だった。年間ではリーグ最多の三振を奪ったが、この日は打球をアウトにする場面も重ね、無失策の守備とともに9回を無安打に抑えた[1][9][10]。
| 位置 | 選手名 | 打撃結果 |
|---|---|---|
| (左) | 金田正泰 | 4打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (二) | 西江一郎 | 3打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 二(途中出場) | 河西俊雄 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (中) | 後藤次男 | 4打数0安打、0打点、1三振、0四死球 |
| (三) | 藤村富美男 | 1打数0安打、0打点、0三振、3四死球 |
| (右) | 渡辺博之 | 2打数0安打、0打点、0三振、1四死球 |
| (一) | 檪信平 | 2打数0安打、0打点、1三振、1四死球 |
| (遊) | 白坂長栄 | 2打数0安打、0打点、1三振、0四死球 |
| 代打 | 御園生崇男 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 遊(途中出場) | 阪田正芳 | 0打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (捕) | 徳網茂 | 3打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (投) | 藤村隆男 | 3打数0安打、0打点、1三振、0四死球 |
| 合計 | 26打数0安打、0打点、4三振、5四死球 |
先発順に途中出場者を挿入。打席ごとのゴロ・飛球・空振り/見逃しの区別は、この資料では確認できないため、打数・安打・打点・三振・四死球の集計を掲載した。犠打を含む全打席数とは別。大阪の金田正泰は、国鉄の投手・金田正一とは別人である[10]。
4番の藤村富美男には3四球を与えたが、1打数0安打。大阪打線の4奪三振は、年間233奪三振を記録した金田の1試合の成績としては多くない。残る23個のアウトは三振以外で奪った[9][10]。
◇18歳の奪三振王から通算4490奪三振へ
翌1952年は269奪三振、1953年は229奪三振で、金田は3年続けてリーグ1位となった。1951年から1964年までは14年連続で20勝以上を記録し、最多奪三振は通算10度。1969年まで投げ、通算400勝と4490奪三振を残した[1][3][4][14][16]。
| 年 | 球団 | 年末年齢 | 登板 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1950 | 国鉄 | 17歳 | 30 | 8 | 12 | 164 2/3 | 143 | 3.93 |
| 1951 | 国鉄 | 18歳 | 56 | 22 | 21 | 350 | 233 | 2.83 |
| 1952 | 国鉄 | 19歳 | 64 | 24 | 25 | 358 | 269 | 3.17 |
| 1953 | 国鉄 | 20歳 | 47 | 23 | 13 | 303 2/3 | 229 | 2.37 |
| 1954 | 国鉄 | 21歳 | 53 | 23 | 23 | 345 2/3 | 269 | 2.63 |
| 1955 | 国鉄 | 22歳 | 62 | 29 | 20 | 400 | 350 | 1.78 |
| 1956 | 国鉄 | 23歳 | 68 | 25 | 20 | 367 1/3 | 316 | 1.74 |
| 1957 | 国鉄 | 24歳 | 61 | 28 | 16 | 353 | 306 | 1.63 |
| 1958 | 国鉄 | 25歳 | 56 | 31 | 14 | 332 1/3 | 311 | 1.30 |
| 1963 | 国鉄 | 30歳 | 53 | 30 | 17 | 337 | 287 | 1.98 |
| 1964 | 国鉄 | 31歳 | 44 | 27 | 12 | 310 | 231 | 2.79 |
| 1965 | 読売 | 32歳 | 28 | 11 | 6 | 141 2/3 | 100 | 1.84 |
| 1969 | 読売 | 36歳 | 18 | 5 | 4 | 72 1/3 | 48 | 4.25 |
NPB一軍公式戦の主な年。年齢は各年12月31日時点。「164 2/3」は164回3分の2。国鉄在籍は1964年まで、1965年から巨人[1][3]。
◇1952年も269奪三振でリーグ1位
翌1952年は64登板、358回、269奪三振。24勝25敗と負け越した一方、奪三振では2年続けてリーグ最多だった。1953年も229奪三振で1位となり、最初の達成から3年連続。1954年は269個だったが杉下茂の273個に及ばず、4年連続とはならなかった[1][4][14]。
◇自己最多は1955年の350奪三振
1955年は400回を投げ、29勝20敗、350奪三振、防御率1.78。金田自身のシーズン最多奪三振数を記録した。最多奪三振の年は1951~1953年、1955~1956年、1958~1960年、1963~1964年の計10度。数字が多い年でも、その年の他投手に上回られれば最多にはならない[1][3][4]。
1951~1964年の14シーズンは、毎年20勝以上、300投球回以上、200奪三振以上を記録した。ただし、14年連続で奪三振数がリーグ最多だったわけではない[1][3]。
◇20歳11カ月で通算1000奪三振
1954年7月10日の中日戦、中日球場で西沢道夫から三振を奪い、通算1000奪三振に到達した。NPB公式一覧で年少達成順位1位の20歳11カ月。シーズンのリーグ最多と、通算の節目を迎えた年齢は別の記録だが、金田の積み上げの早さが分かる[15]。
◇通算4490奪三振は歴代1位
1957年8月21日には中日戦で完全試合を達成した。その後1965年に巨人へ移り、1969年まで現役で出場。通算944登板、400勝298敗、4490奪三振、防御率2.34を残し、1988年に野球殿堂入りした。2026年シーズン終了時点でも、4490奪三振はNPB歴代1位である[1][3][9][16]。
正式な表彰が始まった後なら
正式名称「最多三振奪取投手賞」が制定されたのはパ・リーグが1989年、セ・リーグが1991年。NPB公式の年度別成績は、それ以前の各年の奪三振1位も「最多奪三振」として掲載している。金田の18歳は、表彰前を含むリーグ最多記録としての最年少である[2][4][5]。
正式表彰の開始後に限れば、最年少は2000年の松坂大輔(西武)の年末満年齢20歳。144奪三振でリーグ最多となり、同年は14勝で最多勝も獲得した。金田の18歳とは集計対象が異なる[4][17][18]。
集計範囲と年齢の扱い
対象はNPB一軍公式戦の年間リーグ最多奪三振で、1リーグ時代とセ・パ両リーグを含む。表彰制度の開始前もNPBの年度別成績に準じて含め、二軍、オープン戦、オールスター、ポストシーズン、MLBは含めない。年齢は対象年12月31日時点の満年齢で、金田は1951−1933=18歳。開幕時から18歳だったという意味ではない[1][2][4][5]。
主要投手部門トップ3は1951年セ・リーグのみ。防御率はNPB公式の掲載値を採用し、奪三振率とチーム内割合は掲載成績から計算した。5月5日・9月5日の試合経過と大阪の打撃内訳は記録専門サイトの二次集計に依拠し、当時の公式スコアカード原本とは未照合[1][2][7][8][10][11]。
2026年の最多三振奪取投手賞は、セ・リーグが才木浩人(175奪三振)、パ・リーグが荘司康誠(171奪三振)。最年少記録の更新はなかった。資料確認日:2026年10月21日[19][20]。