詳細
最初は2本、次は9本――藤村富美男と川上哲治
1936年秋の藤村は25試合で2本塁打を放ち、山下実、古谷倉之助と同率1位。1940年の川上は104試合で9本塁打を記録し、2位に4本差をつけた。本数の違いには、シーズンの試合数の差もある[2][3][6][7]。
| 選手名 | 生年月日 | 受賞年 | 球団 | 本塁打 | 年齢 |
|---|---|---|---|---|---|
| 藤村富美男 | 1916年8月14日 | 1936年秋 | 大阪 | 2 | 20歳 |
| 川上哲治 | 1920年3月23日 | 1940年 | 巨人 | 9 | 20歳 |
| 古川清蔵 | 1922年3月4日 | 1942年 | 名古屋 | 8 | 20歳 |
| 中西太 | 1933年4月11日 | 1953年 | 西鉄 | 36 | 20歳 |
年齢は受賞年12月31日時点。球団は当時の名称を略記した。現在の阪神、巨人、中日、西武へつながる球団での記録である[1][2][3][4][5]。
◇本数の差は18倍、チーム内での割合は全員3割超
4人の本塁打数は2~36本と大きく異なるが、所属球団の総本塁打に占める割合は藤村が2/5本で40.0%、川上が9/23本で約39.1%、古川が8/24本で約33.3%、中西が36/114本で約31.6%。いずれもチーム本塁打の3割以上を記録した[6][7][8][9]。
◇次の年齢記録は21歳
年末満年齢21歳での本塁打王には、1941年の服部受弘(名古屋、8本)、1954年の中西太(西鉄、31本)、1955年の町田行彦(国鉄、31本)がいる。最年少20歳の4人より1歳上の記録だ[1][5][20][21]。
1936年秋 藤村富美男――投打で働いた最初の本塁打王
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 25 | 60 | 52 | 13 | 18 | 1 | 1 | 2 | 27 | 13 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | ― | 0 | ― | 7 | 1 | 4 | ― | .346 | .519 |
1936年秋の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[2]。
◇2本で3人が並んだ
1936年秋の本塁打1位は藤村、阪急の山下実、名古屋金鯱軍の古谷倉之助の3人で、ともに2本。2位・3位は存在しない。大阪タイガースのチーム本塁打は5本で、そのうち2本を藤村が放った[2][6]。
藤村は52打数18安打で打率.346だったが、当時の規定打数55に3打数届かず、首位打者の順位表には入らなかった。本塁打王に規定打数の条件はない[2][10]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 苅田久徳 | セネタース | 16 |
| 2 | 坪内道則 | 大東京 | 13 |
| 3 | 平桝敏男 | 大阪 | 11 |
| 3 | 島秀之助 | 金鯱 | 11 |
1936年秋の1リーグ全体。大阪は大阪タイガース、金鯱は名古屋金鯱軍、セネタースは東京セネタース。打率は規定打数到達者、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含む。同順位は全員掲載する[6][10]。
◇入団年から投手としても登板
入団した1936年秋、藤村は投手としても11登板、6勝1敗、防御率1.93を記録した。打者としての2本塁打・13打点に加え、投手としても主力を担っていた[2]。
1937年は春秋とも本塁打0本。その後、1949年には46本塁打・142打点の二冠、1950年には打率.362の首位打者になった。1936年秋の2本は、のちの長打力の全盛期とは異なる時代の記録である[2][19]。
1940年 川上哲治――前年の首位打者が本塁打でも1位に
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 104 | 446 | 392 | 51 | 122 | 23 | 9 | 9 | 190 | 66 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 7 | ― | 0 | 4 | 50 | 0 | 27 | ― | .311 | .485 |
1940年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[3]。
前年1939年には19歳で首位打者と打点王。翌1940年は打率.311、9本塁打、66打点で、本塁打王となった。打率は鬼頭数雄に次ぐ2位、打点は中島治康の67に1差の2位で、主要3部門すべてで上位に入った[3][7]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 石田政良 | 名古屋 | 32 |
| 2 | 国久松一 | 南海 | 31 |
| 3 | 吉原正喜 | 巨人 | 30 |
1940年の1リーグ全体。阪神、翼、金鯱などは年度末の球団名を略記。本塁打3位は4本の3人で、全員掲載する[7][11]。
◇2位に4本差をつけて優勝に貢献
川上は本塁打2位の苅田久徳の5本を4本上回った。巨人は76勝28敗で優勝。この年の川上の本塁打王は、チームの連覇の中での受賞だった[7]。
翌1941年は4本塁打、打率.310、57打点。再び首位打者と打点王となり、MVPにも選ばれた。次の本塁打王は戦後の1948年で、25本を記録して青田昇と並んだ。若い時の9本だけでなく、異なる時代に2度の本塁打王を獲得している[3]。
8本塁打で頂点に立った古川清蔵
1942年の古川は、101試合で8本塁打、44打点。2位の岩本義行、中島治康を1本差で上回り、プロ2年目で初の本塁打王となった。打率は.216だったが、本塁打1位、打点3位という成績を残している[4][8]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 101 | 426 | 394 | 44 | 85 | 13 | 4 | 8 | 130 | 44 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 14 | 10 | 1 | ― | 31 | 0 | 45 | ― | .216 | .330 |
1942年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[4]。
◇前年0本から本塁打王へ
古川は1922年3月4日生まれ。入団1年目の1941年は38試合、117打数16安打、打率.137、本塁打0本だった。翌年は出場101試合、394打数85安打へと出場機会と安打数を増やし、8本塁打でリーグの頂点に立った[4]。
1942年の本塁打2位は岩本義行と中島治康の7本で、古川との差は1本。同年の首位打者・呉波の打率は.286で、リーグ8球団の本塁打合計も108本だった。名古屋軍24本のうち8本を古川が記録している[8]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 坪内道則 | 朝日 | 44 |
| 2 | 呉波 | 巨人 | 40 |
| 3 | 岩本義行 | 南海 | 37 |
1942年の1リーグ全体。名古屋は名古屋軍、朝日は朝日軍の略。本塁打は2位が2人で、次は4位となる[8][12]。
◇翌年も4本で本塁打王
1943年の古川は80試合で4本塁打。同じ名古屋軍の岩本章、加藤正二と3人で本塁打王を分け合い、2年連続の受賞となった。1球団の3選手が同数でリーグ最多に並んだ[4][18]。
戦後は中部日本、中日を経て1948年から阪急へ。1950年には打率.279、13本塁打に加え56盗塁を記録し、長打だけでなく走力でも成績を残した。1959年まで出場し、20歳でのタイトルから長い現役生活へとつながった[4]。
| 年 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1941 | 名古屋 | 38 | 117 | 16 | 0 | 3 | 2 | .137 |
| 1942 | 名古屋 | 101 | 394 | 85 | 8 | 44 | 14 | .216 |
| 1943 | 名古屋 | 80 | 303 | 59 | 4 | 20 | 13 | .195 |
| 1946 | 中部日本 | 98 | 397 | 103 | 9 | 52 | 23 | .259 |
| 1948 | 阪 急 | 124 | 478 | 118 | 7 | 55 | 33 | .247 |
| 1950 | 阪 急 | 115 | 423 | 118 | 13 | 49 | 56 | .279 |
| 1959 | 阪 急 | 57 | 125 | 26 | 1 | 6 | 4 | .208 |
受賞前後、移籍後と最終年の一軍公式戦成績。1946年の球団名は中部日本、1948年以降の表記年は阪急[4]。
中西太は36本塁打と36盗塁
1953年の中西は、120試合で打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁。本塁打と打点の二冠に加えて、打率3割・30本塁打・30盗塁のトリプルスリーも達成した。新人王となった前年から、本塁打を12本から36本へと伸ばしたシーズンである[5][9]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 120 | 509 | 465 | 92 | 146 | 20 | 7 | 36 | 288 | 86 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 36 | 16 | 1 | ― | 41 | 1 | 52 | 13 | .314 | .619 |
1953年のNPB公式成績。―は掲載欄が空欄の項目で、0とはみなさない。509打席に対し、打数465・四球41・死球1・犠打1の合計は508。残る1打席の項目は原表から特定できないため、打席509は公式値を維持する[5]。
◇本塁打と打点の二冠、さらにトリプルスリー
中西はプロ2年目の1953年に打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁。本塁打王・打点王の二冠とトリプルスリーを同じシーズンに達成した。新人王となった前年の12本塁打から3倍に増やしている[5][9]。
中西の36本塁打は2位の豊田泰光を9本上回り、86打点も2位の堀井数男を8点上回った。打率は岡本伊三美の.318に次ぐ2位。三冠王には届かなかったものの、主要3部門の順位はすべて2位以内だった[9][13]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | L.レインズ | 阪急 | 61 |
| 2 | 飯田徳治 | 南海 | 48 |
| 3 | 木塚忠助 | 南海 | 44 |
1953年パ・リーグ。中西は146安打÷465打数=.313978…、堀井数男は144安打÷459打数=.313725…で、3桁表示はいずれも.314。順位を示すためNPB公式に合わせ、小数第4位までの切り捨て表示(.3139、.3137)とした。本塁打3位は2人。中西の行を赤字太字にした[9][13]。
◇平和台で語り継がれる推定160メートル弾
8月29日の大映戦では、平和台球場で林義一からバックスクリーンを越える本塁打を放った。後年の報道が伝える飛距離160メートルは推定値であり、実測記録ではない[15]。
◇チームは4位、若い2人が本塁打1・2位
西鉄は57勝61敗2分で4位。本塁打114本はリーグ最多で、20歳の中西36本と新人王の豊田泰光27本で計63本、チーム全体の55.3%を占めた。優勝とMVPは南海だった[9]。
| 年 | 年齢 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1952 | 19歳 | 111 | 384 | 108 | 12 | 65 | 16 | .281 |
| 1953 | 20歳 | 120 | 465 | 146 | 36 | 86 | 36 | .314 |
| 1954 | 21歳 | 130 | 493 | 146 | 31 | 82 | 23 | .296 |
| 1955 | 22歳 | 135 | 473 | 157 | 35 | 98 | 19 | .332 |
| 1956 | 23歳 | 137 | 462 | 150 | 29 | 95 | 15 | .325 |
| 1957 | 24歳 | 132 | 486 | 154 | 24 | 100 | 15 | .317 |
| 1958 | 25歳 | 126 | 404 | 127 | 23 | 84 | 8 | .314 |
| 1961 | 28歳 | 99 | 253 | 77 | 21 | 54 | 4 | .304 |
| 1969 | 36歳 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
中西の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。いずれも西鉄。年齢は各年末の満年齢。1969年が最終出場年[5]。
1954年は31本、1955年は35本、1956年は29本で本塁打王となり、1953年から4年連続受賞。1955年は打率.332で初の首位打者にもなった。1956年は本塁打・打点の二冠でMVPを受賞し、西鉄の初の日本一に貢献した[5][14]。
1958年には23本塁打で5度目の本塁打王となり、打率.314で2度目の首位打者も獲得した。通算では1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、打率.307。20歳での本塁打王は、後に5度の受賞へと続く最初のタイトルだった[5][14]。
◇打者から指導者へ
引退後は西鉄、日本ハム、阪神で監督を務め、打撃指導者としても活動した。野球殿堂博物館は、29歳で西鉄の選手兼任監督になった経歴を紹介している[14]。
記録の範囲と年齢の扱い
対象は1リーグ時代を含むNPB一軍公式戦の各シーズン本塁打王。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは含めない。最年少20歳タイの4選手は専門誌の記録解説とNPB公式の生年月日・年度別成績で照合した[1][2][3][4][5]。
年齢は受賞年12月31日時点の満年齢とする。4人ともその年に20歳になり、誕生日の日単位では順位付けしない。1936年秋は年間通算ではなく独立したシーズンとして扱う[2][3][4][5][6]。
ランキングは受賞当時のリーグ内の上位3位までで、同順位を全員掲載する。1936年秋・1940年・1942年は1リーグ全体、1953年はパ・リーグのみ。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者を含む。古い成績の空欄は0とみなさない[6][7][8][9][10][11][12][13]。
2026年の本塁打王はセ・リーグが佐藤輝明39本、パ・リーグが栗原陵矢40本。NPB公式の最終表彰で照合し、20歳の最年少記録が更新されていないことを確認した。資料確認日:2026年10月21日[16][17]。