最年少で本塁打王になった選手は?

若さこそパワー。プロ野球の歴史で、最も若くして本塁打王になったのは誰だろうか。

一般的には?

本塁打王は、シーズンの本塁打数がリーグ最多となった選手のタイトルだ。同数なら複数の選手が受賞し、首位打者と異なり規定打席への到達は条件にならない。今回は1リーグ時代から現在までを対象に、受賞年の12月31日時点の満年齢で最年少記録をたどる。

答え

最年少本塁打王の選手名と年齢(年末満年齢)藤村富美男・川上哲治・古川清蔵・中西太 各20歳

答えは藤村富美男、川上哲治、古川清蔵、中西太の4人で、いずれも20歳。藤村は1936年秋に2本、川上は1940年に9本、古川は1942年に8本、中西は1953年に36本を記録した。1リーグ時代を含めると4人が並び、1950年の2リーグ分立以降に限れば中西が最年少となる[1][2][3][4][5]。

年
1936年 1940年 1942年 1953年
選手
藤村富美男(1936年秋) 川上哲治(1940年) 古川清蔵(1942年) 中西太(1953年)
チーム
大阪タイガース(藤村) 東京巨人軍(川上) 名古屋軍(古川) 西鉄ライオンズ(中西)
カテゴリ
打撃

詳細

最初は2本、次は9本――藤村富美男と川上哲治

1936年秋の藤村は25試合で2本塁打を放ち、山下実、古谷倉之助と同率1位。1940年の川上は104試合で9本塁打を記録し、2位に4本差をつけた。本数の違いには、シーズンの試合数の差もある[2][3][6][7]。

最年少タイの4人
選手名生年月日受賞年球団本塁打年齢
藤村富美男1916年8月14日1936年秋大阪220歳
川上哲治1920年3月23日1940年巨人920歳
古川清蔵1922年3月4日1942年名古屋820歳
中西太1933年4月11日1953年西鉄3620歳

年齢は受賞年12月31日時点。球団は当時の名称を略記した。現在の阪神、巨人、中日、西武へつながる球団での記録である[1][2][3][4][5]。

◇本数の差は18倍、チーム内での割合は全員3割超

4人の本塁打数は2~36本と大きく異なるが、所属球団の総本塁打に占める割合は藤村が2/5本で40.0%、川上が9/23本で約39.1%、古川が8/24本で約33.3%、中西が36/114本で約31.6%。いずれもチーム本塁打の3割以上を記録した[6][7][8][9]。

◇次の年齢記録は21歳

年末満年齢21歳での本塁打王には、1941年の服部受弘(名古屋、8本)、1954年の中西太(西鉄、31本)、1955年の町田行彦(国鉄、31本)がいる。最年少20歳の4人より1歳上の記録だ[1][5][20][21]。

1936年秋 藤村富美男――投打で働いた最初の本塁打王

藤村富美男のシーズン詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
25605213181122713
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
3―0―714―.346.519

1936年秋の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[2]。

◇2本で3人が並んだ

1936年秋の本塁打1位は藤村、阪急の山下実、名古屋金鯱軍の古谷倉之助の3人で、ともに2本。2位・3位は存在しない。大阪タイガースのチーム本塁打は5本で、そのうち2本を藤村が放った[2][6]。

藤村は52打数18安打で打率.346だったが、当時の規定打数55に3打数届かず、首位打者の順位表には入らなかった。本塁打王に規定打数の条件はない[2][10]。

盗塁
順位選手名球団成績
1苅田久徳セネタース16
2坪内道則大東京13
3平桝敏男大阪11
3島秀之助金鯱11

1936年秋の1リーグ全体。大阪は大阪タイガース、金鯱は名古屋金鯱軍、セネタースは東京セネタース。打率は規定打数到達者、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含む。同順位は全員掲載する[6][10]。

◇入団年から投手としても登板

入団した1936年秋、藤村は投手としても11登板、6勝1敗、防御率1.93を記録した。打者としての2本塁打・13打点に加え、投手としても主力を担っていた[2]。

1937年は春秋とも本塁打0本。その後、1949年には46本塁打・142打点の二冠、1950年には打率.362の首位打者になった。1936年秋の2本は、のちの長打力の全盛期とは異なる時代の記録である[2][19]。

1940年 川上哲治――前年の首位打者が本塁打でも1位に

川上哲治のシーズン詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
10444639251122239919066
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
7―0450027―.311.485

1940年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[3]。

前年1939年には19歳で首位打者と打点王。翌1940年は打率.311、9本塁打、66打点で、本塁打王となった。打率は鬼頭数雄に次ぐ2位、打点は中島治康の67に1差の2位で、主要3部門すべてで上位に入った[3][7]。

盗塁
順位選手名球団成績
1石田政良名古屋32
2国久松一南海31
3吉原正喜巨人30

1940年の1リーグ全体。阪神、翼、金鯱などは年度末の球団名を略記。本塁打3位は4本の3人で、全員掲載する[7][11]。

◇2位に4本差をつけて優勝に貢献

川上は本塁打2位の苅田久徳の5本を4本上回った。巨人は76勝28敗で優勝。この年の川上の本塁打王は、チームの連覇の中での受賞だった[7]。

翌1941年は4本塁打、打率.310、57打点。再び首位打者と打点王となり、MVPにも選ばれた。次の本塁打王は戦後の1948年で、25本を記録して青田昇と並んだ。若い時の9本だけでなく、異なる時代に2度の本塁打王を獲得している[3]。

8本塁打で頂点に立った古川清蔵

1942年の古川は、101試合で8本塁打、44打点。2位の岩本義行、中島治康を1本差で上回り、プロ2年目で初の本塁打王となった。打率は.216だったが、本塁打1位、打点3位という成績を残している[4][8]。

古川清蔵のシーズン詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
1014263944485134813044
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
14101―31045―.216.330

1942年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[4]。

◇前年0本から本塁打王へ

古川は1922年3月4日生まれ。入団1年目の1941年は38試合、117打数16安打、打率.137、本塁打0本だった。翌年は出場101試合、394打数85安打へと出場機会と安打数を増やし、8本塁打でリーグの頂点に立った[4]。

1942年の本塁打2位は岩本義行と中島治康の7本で、古川との差は1本。同年の首位打者・呉波の打率は.286で、リーグ8球団の本塁打合計も108本だった。名古屋軍24本のうち8本を古川が記録している[8]。

盗塁
順位選手名球団成績
1坪内道則朝日44
2呉波巨人40
3岩本義行南海37

1942年の1リーグ全体。名古屋は名古屋軍、朝日は朝日軍の略。本塁打は2位が2人で、次は4位となる[8][12]。

◇翌年も4本で本塁打王

1943年の古川は80試合で4本塁打。同じ名古屋軍の岩本章、加藤正二と3人で本塁打王を分け合い、2年連続の受賞となった。1球団の3選手が同数でリーグ最多に並んだ[4][18]。

戦後は中部日本、中日を経て1948年から阪急へ。1950年には打率.279、13本塁打に加え56盗塁を記録し、長打だけでなく走力でも成績を残した。1959年まで出場し、20歳でのタイトルから長い現役生活へとつながった[4]。

年球団試合打数安打本塁打打点盗塁打率
1941名古屋3811716032.137
1942名古屋1013948584414.216
1943名古屋803035942013.195
1946中部日本9839710395223.259
1948阪 急12447811875533.247
1950阪 急115423118134956.279
1959阪 急5712526164.208

受賞前後、移籍後と最終年の一軍公式戦成績。1946年の球団名は中部日本、1948年以降の表記年は阪急[4]。

中西太は36本塁打と36盗塁

1953年の中西は、120試合で打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁。本塁打と打点の二冠に加えて、打率3割・30本塁打・30盗塁のトリプルスリーも達成した。新人王となった前年から、本塁打を12本から36本へと伸ばしたシーズンである[5][9]。

中西太のシーズン詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
120509465921462073628886
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
36161―4115213.314.619

1953年のNPB公式成績。―は掲載欄が空欄の項目で、0とはみなさない。509打席に対し、打数465・四球41・死球1・犠打1の合計は508。残る1打席の項目は原表から特定できないため、打席509は公式値を維持する[5]。

◇本塁打と打点の二冠、さらにトリプルスリー

中西はプロ2年目の1953年に打率.314、36本塁打、86打点、36盗塁。本塁打王・打点王の二冠とトリプルスリーを同じシーズンに達成した。新人王となった前年の12本塁打から3倍に増やしている[5][9]。

中西の36本塁打は2位の豊田泰光を9本上回り、86打点も2位の堀井数男を8点上回った。打率は岡本伊三美の.318に次ぐ2位。三冠王には届かなかったものの、主要3部門の順位はすべて2位以内だった[9][13]。

盗塁
順位選手名球団成績
1L.レインズ阪急61
2飯田徳治南海48
3木塚忠助南海44

1953年パ・リーグ。中西は146安打÷465打数=.313978…、堀井数男は144安打÷459打数=.313725…で、3桁表示はいずれも.314。順位を示すためNPB公式に合わせ、小数第4位までの切り捨て表示(.3139、.3137)とした。本塁打3位は2人。中西の行を赤字太字にした[9][13]。

◇平和台で語り継がれる推定160メートル弾

8月29日の大映戦では、平和台球場で林義一からバックスクリーンを越える本塁打を放った。後年の報道が伝える飛距離160メートルは推定値であり、実測記録ではない[15]。

◇チームは4位、若い2人が本塁打1・2位

西鉄は57勝61敗2分で4位。本塁打114本はリーグ最多で、20歳の中西36本と新人王の豊田泰光27本で計63本、チーム全体の55.3%を占めた。優勝とMVPは南海だった[9]。

2年目から4年連続の本塁打王
年年齢試合打数安打本塁打打点盗塁打率
195219歳111384108126516.281
195320歳120465146368636.314
195421歳130493146318223.296
195522歳135473157359819.332
195623歳137462150299515.325
195724歳1324861542410015.317
195825歳12640412723848.314
196128歳992537721544.304
196936歳660000.000

中西の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。いずれも西鉄。年齢は各年末の満年齢。1969年が最終出場年[5]。

1954年は31本、1955年は35本、1956年は29本で本塁打王となり、1953年から4年連続受賞。1955年は打率.332で初の首位打者にもなった。1956年は本塁打・打点の二冠でMVPを受賞し、西鉄の初の日本一に貢献した[5][14]。

1958年には23本塁打で5度目の本塁打王となり、打率.314で2度目の首位打者も獲得した。通算では1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、打率.307。20歳での本塁打王は、後に5度の受賞へと続く最初のタイトルだった[5][14]。

◇打者から指導者へ

引退後は西鉄、日本ハム、阪神で監督を務め、打撃指導者としても活動した。野球殿堂博物館は、29歳で西鉄の選手兼任監督になった経歴を紹介している[14]。

記録の範囲と年齢の扱い

対象は1リーグ時代を含むNPB一軍公式戦の各シーズン本塁打王。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは含めない。最年少20歳タイの4選手は専門誌の記録解説とNPB公式の生年月日・年度別成績で照合した[1][2][3][4][5]。

年齢は受賞年12月31日時点の満年齢とする。4人ともその年に20歳になり、誕生日の日単位では順位付けしない。1936年秋は年間通算ではなく独立したシーズンとして扱う[2][3][4][5][6]。

ランキングは受賞当時のリーグ内の上位3位までで、同順位を全員掲載する。1936年秋・1940年・1942年は1リーグ全体、1953年はパ・リーグのみ。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者を含む。古い成績の空欄は0とみなさない[6][7][8][9][10][11][12][13]。

2026年の本塁打王はセ・リーグが佐藤輝明39本、パ・リーグが栗原陵矢40本。NPB公式の最終表彰で照合し、20歳の最年少記録が更新されていないことを確認した。資料確認日:2026年10月21日[16][17]。

何がすごいのか

  • NPBの草創期から2リーグ制の時代まで、4人が20歳で本塁打王を獲得している[1]。
  • 藤村は規定打数に届かない52打数で2本塁打。本塁打王と打率ランキングでは資格条件が異なることも分かる[2][6][10]。
  • 中西は20歳で本塁打王と打点王になり、トリプルスリーも達成。1953年から4年連続で本塁打王となった[5][14]。

出典