最年少で打点王になった選手は?

チャンスに強い頼れる好打者の証。プロ野球で最も若くしてリーグ最多打点を記録したのは誰だろうか。

一般的には?

打点王はシーズンのリーグ最多打点を記録した選手に与えられる。同数なら複数の選手が受賞する。本塁打だけでなく、適時打や犠牲フライ、押し出し四死球などでも打点が付く。今回は受賞年の12月31日時点の満年齢で比較する[17]。

答え

最年少打点王の選手名と年齢(年末満年齢)川上哲治/青田昇 各19歳

最年少打点王は川上哲治と青田昇で、受賞年の年末満年齢はいずれも19歳。川上は1939年に75打点、青田は1943年に42打点を記録し、ともに東京巨人軍でタイトルを獲得した。青田は11月22日生まれで、1943年の公式戦期間中は18歳だった[1][2][3][4][5]。

年
1939年 1943年
選手
川上哲治(1939年) 青田昇(1943年)
チーム
東京巨人軍
カテゴリ
打撃

詳細

川上哲治は19歳で打撃二冠

1939年の川上は94試合で116安打、打率.338、75打点。打点2位の中島治康に17打点差をつけ、首位打者と打点王を獲得した。投手としても6勝を記録した[2][4]。

最年少タイの2人
選手名生年月日受賞年球団打点年末年齢
川上哲治1920年3月23日1939巨人7519歳
青田昇1924年11月22日1943巨人4219歳

球団名は当時の東京巨人軍。年齢は各年12月31日時点。1943年に42打点で並んだ野口明は同じ年の打点王だが、最年少タイの選手ではない[1][2][3][5]。

1939年 川上哲治の詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
94385343601161712416975
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
8―0437119―.338.493

1939年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[2]。

◇4本塁打で75打点

1939年の川上は116安打のうち、単打が83本、二塁打17本、三塁打12本、本塁打4本。長打は33本に上り、三塁打の数は本塁打の3倍だった。打率は116÷343=.338192…で、公式表示の.338と一致する[2]。

打率.338は343打数116安打によるもの。打点では同僚の中島治康が58で2位、大阪の堀尾文人が57で3位となった。川上は打率と打点の両方で1位に立った[4][8]。

盗塁
順位選手名球団成績
1山田伝阪急30
1五味芳夫金鯱30
3白石敏男巨人28
3村瀬一三名古屋28

1939年の1リーグ全体。大阪は大阪タイガース、金鯱は名古屋金鯱軍の略。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含む。盗塁は1位2人、3位2人を全員掲載する。川上の行を赤字太字で示す[4][8]。

◇1試合3三塁打で4打点

6月21日の南海6回戦(甲子園)で、川上は6打数5安打4打点。単打1本、二塁打1本、三塁打3本を放ち、巨人は14対6で勝った。1試合3三塁打は野球殿堂博物館にも掲載されている記録である[6][10]。

◇投手としても6勝

この年の川上は投手としても登板し、102回3分の2を投げて6勝4敗、防御率2.36を記録した。打撃タイトルを獲得したシーズンに、投球でもチームを支えていた[2]。

巨人は66勝26敗4分、勝率.717で優勝した。チームはリーグ最多の493得点、439打点を記録し、川上の75打点はチーム打点の約17.1%(75÷439)を占めた。42勝のスタルヒンがMVPを受賞した[4]。

この年から春夏秋を通算する1シーズン制となった。各期の優勝チームは別に表彰されたが、年度優勝は3期の通算成績で争った。川上の75打点も、その1年を通した数字である[8]。

青田昇は18歳で42打点、本塁打0本

1943年の青田は巨人の全84試合に出場して42打点。戦前の西鉄軍に所属した野口明と並び、打点王になった。323打数72安打、打率.223、本塁打0本。シーズン中は18歳だった[3][5][7]。

1943年 青田昇の詳細成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
84346323257210609442
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
10101―22021―.223.291

1943年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[3]。

◇本塁打以外の形で積み上げた42打点

青田は323打数72安打で打率.223、二塁打10本、三塁打6本、本塁打0本。野口明と42打点で1位に並び、3位の中島治康、黒沢俊夫(各32打点)には10打点差をつけた[3][5][9]。

前年の1942年は42試合で124打数44安打、打率.355、1本塁打、18打点。1943年は84試合すべてに出場し、打点を18から42へ増やした。打席内訳も323打数、22四球、1犠打の合計が346打席と一致する[3][5]。

盗塁
順位選手名球団成績
1山田伝阪急56
2呉昌征巨人54
3坪内道則朝日36

1943年の1リーグ全体。名古屋は名古屋軍、朝日は朝日軍、西鉄は西鉄軍の略。本塁打1位は4本の3人、打点1位は2人、打点3位も2人を掲載する。この西鉄軍は戦前の球団で、戦後の西鉄ライオンズとは別球団。青田の行を赤字太字で示す[5][9]。

◇4月10日に初めて4番を任される

4月10日の大和1回戦(後楽園)で、青田は4番・左翼手として先発し、4打数1安打1打点。巨人の歴代4番打者一覧でも、この日を青田の初の4番先発としている。当時18歳だった[3][11][12]。

チーム123456789RHE
大和002030000563
巨人000001030473

1943年4月10日、大和対巨人1回戦、後楽園球場。巨人は5点を先行され、6回に1点、8回に3点を返したが4対5で敗れた。巨人の先発投手は沢村栄治。打点王のシーズンでも、この4番初出場の試合は敗戦だった[11][20]。

巨人のオーダーと打撃成績
位置選手名打撃結果
(中)呉昌征4打数1安打、0打点、0三振、1四死球
(二)坂本茂4打数1安打、0打点、0三振、0四死球
(遊)白石敏男3打数0安打、0打点、0三振、1四死球
(左)青田昇4打数1安打、1打点、1三振、0四死球
(右)中島治康4打数2安打、0打点、0三振、0四死球
(一)伊藤健太郎4打数2安打、3打点、0三振、0四死球
(三)三好主2打数0安打、0打点、0三振、0四死球
代打木暮力三1打数0安打、0打点、0三振、0四死球
三小池繁雄0打数0安打、0打点、0三振、0四死球
代打藤本英雄1打数0安打、0打点、0三振、0四死球
三遠山隆男0打数0安打、0打点、0三振、0四死球
(捕)多田文久三3打数0安打、0打点、0三振、0四死球
代打林清光1打数0安打、0打点、0三振、0四死球
(投)沢村栄治1打数0安打、0打点、1三振、0四死球
投中村政美3打数0安打、0打点、0三振、0四死球
合計35打数7安打、4打点、2三振、2四死球

先発打者は打順順、途中出場者は同じ打順の直後に掲載。打席別の打球方向や順序は確定できないため、打数・安打・打点・三振・四死球を掲載した。合計35打数7安打、4打点、2三振、2四死球を再計算済み。青田の名前のみ赤字太字[11]。

◇優勝を支えた若い打点王

巨人は54勝27敗3分で、2位名古屋に4ゲーム差をつけて優勝した。呉昌征が打率.300で首位打者とMVP、藤本英雄は34勝、防御率0.73。青田も打点王として優勝に貢献した[5]。

1943年の巨人は263得点、236打点を記録し、青田の42打点はチーム打点の約17.8%(42÷236)だった。川上の1939年の約17.1%と近い割合である。なお、得点と打点は異なる記録であり、失策や暴投などによる得点には打点が付かない場合がある[4][5][17]。

その後も続いた両選手のタイトル獲得

川上は1941年に57打点、1955年に79打点で打点王となり、受賞は計3度。青田も1951年に32本塁打、105打点で打撃二冠を獲得した。2人は1948年には巨人の同僚として25本塁打で本塁打王を分け合っている[2][3][6][7][13][14]。

川上は35歳でも打点王に
年年末年齢試合打数安打本塁打打点打率
1938秋18歳3913335324.263
193919歳94343116475.338
194020歳104392122966.311
194121歳86339105457.310
194626歳70279851067.305
195131歳973741411581.377
195535歳1204351471279.338
195838歳124435107966.246

川上の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。すべて巨人。1938年秋は独立したシーズンで、ほかの表記年は年間成績。年齢は西暦の年末満年齢[2]。

翌1940年は66打点で2位となり、打点王の連覇は逃したが、9本塁打で本塁打王になった。1941年は57打点と打率.310で再び打点王と首位打者を獲得し、MVPにも選ばれた[2][6]。

川上の3度目の打点王は1955年の79打点で、年末35歳。打率.338で首位打者にもなり、MVPを獲得した。1939年の初受賞から16年後の打撃二冠である。通算2351安打、181本塁打、1319打点、打率.313を残した[2][6][14]。

青田は戦後に長距離打者として開花
年球団年末年齢試合本塁打打点打率
1942巨人18歳42118.355
1943巨人19歳84042.223
1946阪急22歳96351.294
1947阪急23歳1181163.233
1948読売24歳1402599.306
1950読売26歳13733134.332
1951読売27歳11432105.312
1953洋松29歳105940.245
1954洋松30歳1243174.294
1956大洋32歳1292565.259
1957大洋33歳1292261.274
1959阪急35歳64317.270

青田の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。NPB年度別成績の球団表記に合わせる。1944・1945年は公式戦出場成績がなく、「0試合」の行として補わない[3]。

戦後の1946、1947年は阪急に在籍し、1948年に巨人へ復帰。1948年は打率.306で首位打者、25本塁打で川上と本塁打王を分け合った。最年少打点王の2人が、今度は同じチームで本塁打王を分け合うことになった[2][3][6][7]。

1951年は114試合で32本塁打、105打点、打率.312。本塁打王と打点王になり、巨人の2リーグ制後初の日本一に貢献した。同年の首位打者は打率.377の川上で、2人が主要打撃3部門を分け合った[2][3][7][13]。

◇洋松、大洋へ移っても本塁打王

1953年から洋松へ移り、1954年は31本、球団名が大洋となった後も1956年25本、1957年22本で本塁打王となった。計5度の本塁打王に対し、打点王は1943年と1951年の2度。通算1709試合、1827安打、265本塁打、1034打点、打率.278を残した[3][7]。

青田は1953年4月23日にサイクル安打、1956年5月6日に4打数連続本塁打を記録した。18歳だった1943年には本塁打0本で打点王となり、後年は5度の本塁打王を獲得している[7]。

19歳シーズンとシーズン中の実年齢

川上は1920年3月23日生まれで、1939年中に19歳となった。青田は1924年11月22日生まれで、1943年のシーズン終了後に19歳を迎えた。1943年の開催期間は4月3日から11月7日で、青田は公式戦の全期間を18歳で過ごした[2][3][9]。

1943年の公式戦終了日は11月7日。青田の19歳の誕生日はその15日後だった。シーズン中の実年齢では18歳、受賞年12月31日の満年齢では19歳となる。本記事の最年少タイは後者の統一基準による[1][2][3][9]。

集計範囲と資料確認日

対象はNPB一軍公式戦のシーズン打点王で、1リーグ時代とセ・パ両リーグを含む。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは対象外。最年少の認定は日刊スポーツの記録記事、生年月日と受賞年・成績はNPB公式記録で照合した[1][2][3][4][5]。

主要打者部門トップ3は1939年、1943年それぞれの1リーグ全体。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含め、同順位は全員掲載する。空欄の古い成績は0に置き換えず、試合別資料は二次集計として扱った[4][5][8][9][10][11]。

2026年の打点王はセ・リーグが佐藤輝明106打点(年末27歳)、パ・リーグが栗原陵矢118打点(年末30歳)で、最年少記録は更新されていない。資料確認日:2026年10月21日[15][16][18][19]。

何がすごいのか

  • 川上は19歳で75打点、青田は18歳で公式戦を終え42打点。年末満年齢ではともに19歳の記録となる[1][2][3]。
  • 川上は首位打者と打点王の二冠。2位に17打点差を付け、投手としても6勝を挙げた[2][4]。
  • 青田は本塁打0本で42打点。巨人のチーム打点236の約17.8%を記録した[3][5]。

出典