詳細
川上哲治は19歳で打撃二冠
1939年の川上は94試合で116安打、打率.338、75打点。打点2位の中島治康に17打点差をつけ、首位打者と打点王を獲得した。投手としても6勝を記録した[2][4]。
| 選手名 | 生年月日 | 受賞年 | 球団 | 打点 | 年末年齢 |
|---|---|---|---|---|---|
| 川上哲治 | 1920年3月23日 | 1939 | 巨人 | 75 | 19歳 |
| 青田昇 | 1924年11月22日 | 1943 | 巨人 | 42 | 19歳 |
球団名は当時の東京巨人軍。年齢は各年12月31日時点。1943年に42打点で並んだ野口明は同じ年の打点王だが、最年少タイの選手ではない[1][2][3][5]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 94 | 385 | 343 | 60 | 116 | 17 | 12 | 4 | 169 | 75 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 8 | ― | 0 | 4 | 37 | 1 | 19 | ― | .338 | .493 |
1939年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[2]。
◇4本塁打で75打点
1939年の川上は116安打のうち、単打が83本、二塁打17本、三塁打12本、本塁打4本。長打は33本に上り、三塁打の数は本塁打の3倍だった。打率は116÷343=.338192…で、公式表示の.338と一致する[2]。
打率.338は343打数116安打によるもの。打点では同僚の中島治康が58で2位、大阪の堀尾文人が57で3位となった。川上は打率と打点の両方で1位に立った[4][8]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山田伝 | 阪急 | 30 |
| 1 | 五味芳夫 | 金鯱 | 30 |
| 3 | 白石敏男 | 巨人 | 28 |
| 3 | 村瀬一三 | 名古屋 | 28 |
1939年の1リーグ全体。大阪は大阪タイガース、金鯱は名古屋金鯱軍の略。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含む。盗塁は1位2人、3位2人を全員掲載する。川上の行を赤字太字で示す[4][8]。
◇1試合3三塁打で4打点
6月21日の南海6回戦(甲子園)で、川上は6打数5安打4打点。単打1本、二塁打1本、三塁打3本を放ち、巨人は14対6で勝った。1試合3三塁打は野球殿堂博物館にも掲載されている記録である[6][10]。
◇投手としても6勝
この年の川上は投手としても登板し、102回3分の2を投げて6勝4敗、防御率2.36を記録した。打撃タイトルを獲得したシーズンに、投球でもチームを支えていた[2]。
巨人は66勝26敗4分、勝率.717で優勝した。チームはリーグ最多の493得点、439打点を記録し、川上の75打点はチーム打点の約17.1%(75÷439)を占めた。42勝のスタルヒンがMVPを受賞した[4]。
この年から春夏秋を通算する1シーズン制となった。各期の優勝チームは別に表彰されたが、年度優勝は3期の通算成績で争った。川上の75打点も、その1年を通した数字である[8]。
青田昇は18歳で42打点、本塁打0本
1943年の青田は巨人の全84試合に出場して42打点。戦前の西鉄軍に所属した野口明と並び、打点王になった。323打数72安打、打率.223、本塁打0本。シーズン中は18歳だった[3][5][7]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 84 | 346 | 323 | 25 | 72 | 10 | 6 | 0 | 94 | 42 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 10 | 10 | 1 | ― | 22 | 0 | 21 | ― | .223 | .291 |
1943年の一軍公式戦。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0ではない。出塁率も同資料が空欄のため掲載しない[3]。
◇本塁打以外の形で積み上げた42打点
青田は323打数72安打で打率.223、二塁打10本、三塁打6本、本塁打0本。野口明と42打点で1位に並び、3位の中島治康、黒沢俊夫(各32打点)には10打点差をつけた[3][5][9]。
前年の1942年は42試合で124打数44安打、打率.355、1本塁打、18打点。1943年は84試合すべてに出場し、打点を18から42へ増やした。打席内訳も323打数、22四球、1犠打の合計が346打席と一致する[3][5]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山田伝 | 阪急 | 56 |
| 2 | 呉昌征 | 巨人 | 54 |
| 3 | 坪内道則 | 朝日 | 36 |
1943年の1リーグ全体。名古屋は名古屋軍、朝日は朝日軍、西鉄は西鉄軍の略。本塁打1位は4本の3人、打点1位は2人、打点3位も2人を掲載する。この西鉄軍は戦前の球団で、戦後の西鉄ライオンズとは別球団。青田の行を赤字太字で示す[5][9]。
◇4月10日に初めて4番を任される
4月10日の大和1回戦(後楽園)で、青田は4番・左翼手として先発し、4打数1安打1打点。巨人の歴代4番打者一覧でも、この日を青田の初の4番先発としている。当時18歳だった[3][11][12]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大和 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 3 |
| 巨人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 4 | 7 | 3 |
1943年4月10日、大和対巨人1回戦、後楽園球場。巨人は5点を先行され、6回に1点、8回に3点を返したが4対5で敗れた。巨人の先発投手は沢村栄治。打点王のシーズンでも、この4番初出場の試合は敗戦だった[11][20]。
| 位置 | 選手名 | 打撃結果 |
|---|---|---|
| (中) | 呉昌征 | 4打数1安打、0打点、0三振、1四死球 |
| (二) | 坂本茂 | 4打数1安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (遊) | 白石敏男 | 3打数0安打、0打点、0三振、1四死球 |
| (左) | 青田昇 | 4打数1安打、1打点、1三振、0四死球 |
| (右) | 中島治康 | 4打数2安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (一) | 伊藤健太郎 | 4打数2安打、3打点、0三振、0四死球 |
| (三) | 三好主 | 2打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 代打 | 木暮力三 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 三 | 小池繁雄 | 0打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 代打 | 藤本英雄 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 三 | 遠山隆男 | 0打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (捕) | 多田文久三 | 3打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 代打 | 林清光 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (投) | 沢村栄治 | 1打数0安打、0打点、1三振、0四死球 |
| 投 | 中村政美 | 3打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 合計 | 35打数7安打、4打点、2三振、2四死球 |
先発打者は打順順、途中出場者は同じ打順の直後に掲載。打席別の打球方向や順序は確定できないため、打数・安打・打点・三振・四死球を掲載した。合計35打数7安打、4打点、2三振、2四死球を再計算済み。青田の名前のみ赤字太字[11]。
◇優勝を支えた若い打点王
巨人は54勝27敗3分で、2位名古屋に4ゲーム差をつけて優勝した。呉昌征が打率.300で首位打者とMVP、藤本英雄は34勝、防御率0.73。青田も打点王として優勝に貢献した[5]。
1943年の巨人は263得点、236打点を記録し、青田の42打点はチーム打点の約17.8%(42÷236)だった。川上の1939年の約17.1%と近い割合である。なお、得点と打点は異なる記録であり、失策や暴投などによる得点には打点が付かない場合がある[4][5][17]。
その後も続いた両選手のタイトル獲得
川上は1941年に57打点、1955年に79打点で打点王となり、受賞は計3度。青田も1951年に32本塁打、105打点で打撃二冠を獲得した。2人は1948年には巨人の同僚として25本塁打で本塁打王を分け合っている[2][3][6][7][13][14]。
| 年 | 年末年齢 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1938秋 | 18歳 | 39 | 133 | 35 | 3 | 24 | .263 |
| 1939 | 19歳 | 94 | 343 | 116 | 4 | 75 | .338 |
| 1940 | 20歳 | 104 | 392 | 122 | 9 | 66 | .311 |
| 1941 | 21歳 | 86 | 339 | 105 | 4 | 57 | .310 |
| 1946 | 26歳 | 70 | 279 | 85 | 10 | 67 | .305 |
| 1951 | 31歳 | 97 | 374 | 141 | 15 | 81 | .377 |
| 1955 | 35歳 | 120 | 435 | 147 | 12 | 79 | .338 |
| 1958 | 38歳 | 124 | 435 | 107 | 9 | 66 | .246 |
川上の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。すべて巨人。1938年秋は独立したシーズンで、ほかの表記年は年間成績。年齢は西暦の年末満年齢[2]。
翌1940年は66打点で2位となり、打点王の連覇は逃したが、9本塁打で本塁打王になった。1941年は57打点と打率.310で再び打点王と首位打者を獲得し、MVPにも選ばれた[2][6]。
川上の3度目の打点王は1955年の79打点で、年末35歳。打率.338で首位打者にもなり、MVPを獲得した。1939年の初受賞から16年後の打撃二冠である。通算2351安打、181本塁打、1319打点、打率.313を残した[2][6][14]。
| 年 | 球団 | 年末年齢 | 試合 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1942 | 巨人 | 18歳 | 42 | 1 | 18 | .355 |
| 1943 | 巨人 | 19歳 | 84 | 0 | 42 | .223 |
| 1946 | 阪急 | 22歳 | 96 | 3 | 51 | .294 |
| 1947 | 阪急 | 23歳 | 118 | 11 | 63 | .233 |
| 1948 | 読売 | 24歳 | 140 | 25 | 99 | .306 |
| 1950 | 読売 | 26歳 | 137 | 33 | 134 | .332 |
| 1951 | 読売 | 27歳 | 114 | 32 | 105 | .312 |
| 1953 | 洋松 | 29歳 | 105 | 9 | 40 | .245 |
| 1954 | 洋松 | 30歳 | 124 | 31 | 74 | .294 |
| 1956 | 大洋 | 32歳 | 129 | 25 | 65 | .259 |
| 1957 | 大洋 | 33歳 | 129 | 22 | 61 | .274 |
| 1959 | 阪急 | 35歳 | 64 | 3 | 17 | .270 |
青田の受賞前後と主な後年の一軍公式戦成績。NPB年度別成績の球団表記に合わせる。1944・1945年は公式戦出場成績がなく、「0試合」の行として補わない[3]。
戦後の1946、1947年は阪急に在籍し、1948年に巨人へ復帰。1948年は打率.306で首位打者、25本塁打で川上と本塁打王を分け合った。最年少打点王の2人が、今度は同じチームで本塁打王を分け合うことになった[2][3][6][7]。
1951年は114試合で32本塁打、105打点、打率.312。本塁打王と打点王になり、巨人の2リーグ制後初の日本一に貢献した。同年の首位打者は打率.377の川上で、2人が主要打撃3部門を分け合った[2][3][7][13]。
◇洋松、大洋へ移っても本塁打王
1953年から洋松へ移り、1954年は31本、球団名が大洋となった後も1956年25本、1957年22本で本塁打王となった。計5度の本塁打王に対し、打点王は1943年と1951年の2度。通算1709試合、1827安打、265本塁打、1034打点、打率.278を残した[3][7]。
青田は1953年4月23日にサイクル安打、1956年5月6日に4打数連続本塁打を記録した。18歳だった1943年には本塁打0本で打点王となり、後年は5度の本塁打王を獲得している[7]。
19歳シーズンとシーズン中の実年齢
川上は1920年3月23日生まれで、1939年中に19歳となった。青田は1924年11月22日生まれで、1943年のシーズン終了後に19歳を迎えた。1943年の開催期間は4月3日から11月7日で、青田は公式戦の全期間を18歳で過ごした[2][3][9]。
1943年の公式戦終了日は11月7日。青田の19歳の誕生日はその15日後だった。シーズン中の実年齢では18歳、受賞年12月31日の満年齢では19歳となる。本記事の最年少タイは後者の統一基準による[1][2][3][9]。
集計範囲と資料確認日
対象はNPB一軍公式戦のシーズン打点王で、1リーグ時代とセ・パ両リーグを含む。二軍、オープン戦、ポストシーズン、MLBは対象外。最年少の認定は日刊スポーツの記録記事、生年月日と受賞年・成績はNPB公式記録で照合した[1][2][3][4][5]。
主要打者部門トップ3は1939年、1943年それぞれの1リーグ全体。打率は当時の資格条件を満たす選手、本塁打・打点・盗塁は規定未到達者も含め、同順位は全員掲載する。空欄の古い成績は0に置き換えず、試合別資料は二次集計として扱った[4][5][8][9][10][11]。
2026年の打点王はセ・リーグが佐藤輝明106打点(年末27歳)、パ・リーグが栗原陵矢118打点(年末30歳)で、最年少記録は更新されていない。資料確認日:2026年10月21日[15][16][18][19]。