詳細
◇19歳で首位打者と打点王の二冠
1939年の川上は94試合に出場し、打率.338、116安打、4本塁打、75打点を記録した。首位打者と打点王を獲得し、安打数もリーグ最多。前年秋の打率.263から打率を7分5厘上げた[1][2][4]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 94 | 385 | 343 | 60 | 116 | 17 | 12 | 4 | 169 | 75 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 8 | ― | 0 | 4 | 37 | 1 | 19 | ― | .338 | .493 |
一軍公式戦の打撃成績。―はNPB個人年度別成績の掲載欄が空欄の項目で、0を意味しない。同資料の出塁率も空欄のため、数値は置かない[1]。
◇打率の分母は343打数
打率は116安打÷343打数=.338192…で、公式表示は.338。385打席を分母にはしない。打席数も343打数+37四球+1死球+4犠飛=385と一致する。116安打の内訳は単打83、二塁打17、三塁打12、本塁打4で、長打は計33本だった[1]。
打率2位は大沢清の.310(345打数107安打)、3位は平山菊二の.307(270打数83安打)。川上は2位に表示上.028の差をつけた。上位4人のうち3人は巨人の川上、平山、千葉茂だった[2]。
◇当時は規定打数で判断
1939年の記録専門資料は打率順位の規定打数を200と記しており、343打数の川上はこれを満たす。現在の規定打席制度を戦前のタイトル判定に当てはめず、順位はNPB公式の1939年年度別成績に従った[2][5]。
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山田伝 | 阪急 | 30 |
| 1 | 五味芳夫 | 金鯱 | 30 |
| 3 | 白石敏男 | 巨人 | 28 |
| 3 | 村瀬一三 | 名古屋 | 28 |
1939年の1リーグ全体。大阪は大阪タイガース、金鯱は名古屋金鯱軍の略。盗塁は1位が2人、3位も2人のため全員を掲載した。打率と打点の川上の行を赤字太字で示す[2][5]。
◇優勝した巨人と若い打線
巨人は66勝26敗4分、勝率.717で優勝し、大阪タイガースに3.5ゲーム差をつけた。チーム打率.266、493得点、869安打はいずれもリーグ最多。川上はこの打線で安打数と打点の両部門でもリーグ1位に立った[2]。
| 順位 | 球団 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 東京巨人 | 96 | 66 | 26 | 4 | .717 | ― |
| 2 | 大阪タイガース | 96 | 63 | 30 | 3 | .677 | 3.5 |
| 3 | 阪急 | 96 | 58 | 36 | 2 | .617 | 9.0 |
| 4 | 東京セネタース | 96 | 49 | 38 | 9 | .563 | 14.5 |
| 5 | 南海 | 96 | 40 | 50 | 6 | .444 | 25.0 |
| 6 | 名古屋 | 96 | 38 | 53 | 5 | .418 | 27.5 |
| 7 | 名古屋金鯱 | 96 | 36 | 56 | 4 | .391 | 30.0 |
| 8 | ライオン | 96 | 33 | 58 | 5 | .363 | 32.5 |
| 9 | イーグルス | 96 | 29 | 65 | 2 | .309 | 38.0 |
球団名は当時の名称。イーグルスは現在の東北楽天ゴールデンイーグルスとは別球団。勝率は勝利÷(勝利+敗北)で、引き分けは分母に含めない[2]。
◇1939年は1シーズン制へ
1938年までは春と秋が別シーズンだったが、1939年は春・夏・秋の3期を通算する年間1シーズン制となった。9球団が各96試合を戦い、年間優勝は全期間の成績で争った。川上の打率.338は春だけ、秋だけの成績ではなく年間を通じた数字である[2][5]。
この年の最多勝42勝とMVPは巨人のスタルヒン。川上が打撃二冠を獲得する一方、投手陣ではスタルヒンが42勝を挙げ、巨人の優勝を支えた[2]。
◇18歳の開幕完投と1試合3三塁打
川上は打撃二冠を獲得した年に、投手としても18試合に登板して6勝を挙げた。開幕戦では18歳で完投勝利。6月21日には、1試合3三塁打というプロ野球記録も残した[1][4][6][7]。
◇開幕戦は18歳の完投勝利
3月18日、後楽園球場での南海戦。川上は9番・投手で先発し、9回6安打1失点、7奪三振で5対1の完投勝利を挙げた。19歳の誕生日は3月23日なので、開幕戦の川上はまだ18歳だった[1][7]。
この日の打撃は4打数無安打だった。それでもシーズン終了時には343打数116安打で打率.338を残し、首位打者となった[1][7]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 完投 | 完封勝 | 投球回 | 奪三振 | 与四球 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 18 | 6 | 4 | 5 | 1 | 102 2/3 | 54 | 64 | 46 | 27 | 2.36 |
1939年一軍公式戦の投手成績。「102 2/3」は102回3分の2。打撃成績と投球回・勝利数は別の成績として記載する[1]。
◇6月21日は3三塁打を含む5安打
6月21日、甲子園球場での南海戦に5番・一塁手で出場。6打数5安打4打点を記録した。5安打の内訳は単打1、二塁打1、三塁打3で、塁打数は1+2+3×3=12。1試合3三塁打は野球殿堂博物館も認定するプロ野球記録である[4][6]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 0 | 3 | 5 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 14 | 18 | 1 |
| 南海 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 6 | 10 | 1 |
1939年6月21日、南海対巨人6回戦。1試合3三塁打の日付と記録は野球殿堂博物館、スコアと試合別成績は二次集計で確認した[4][6]。
| 位置 | 選手名 | 打撃結果 |
|---|---|---|
| (遊) | 白石敏男 | 6打数2安打、3打点、0三振、0四死球 |
| (三) | 水原茂 | 4打数0安打、0打点、0三振、2四死球 |
| (二) | 千葉茂 | 6打数2安打、0打点、2三振、0四死球 |
| (右) | 中島治康 | 5打数2安打、0打点、0三振、0四死球 |
| 右 | 呉波 | 1打数0安打、0打点、0三振、0四死球 |
| (一) | 川上哲治 | 6打数5安打、4打点、0三振、0四死球 |
| (中) | A.リベラ | 3打数0安打、0打点、0三振、1四死球 |
| 左 | 三田政夫 | 2打数2安打、1打点、0三振、0四死球 |
| (左)→中 | 平山菊二 | 5打数2安打、4打点、1三振、0四死球 |
| (捕) | 吉原正喜 | 3打数2安打、0打点、0三振、2四死球 |
| (投) | 楠安夫 | 3打数1安打、1打点、1三振、2四死球 |
| 合計 | 44打数18安打、13打点、4三振、7四死球 |
表は試合別二次集計の打数・安打・打点・三振・四死球を転載し、列ごとの合計を再計算した。44打数18安打、13打点、4三振、7四死球で一致する。打席順や打球方向までは確定しない。川上の二塁打1・三塁打3は別途確認できる[4][6]。
南海に初回3点を先行された巨人は2回に3点を返し、3回には5点を挙げて逆転した。川上の3三塁打は、1939年の年間12三塁打のちょうど4分の1に当たる[1][4][6]。
◇20歳で本塁打王、21歳で再び首位打者
翌1940年は打率.311で2位、9本塁打で初の本塁打王となった。1941年は打率.310、57打点で再び首位打者と打点王に輝き、MVPも初受賞。19歳での首位打者から、35歳までに計5度の首位打者を獲得した[1][4][8][9]。
| 年 | 年齢 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 三振 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1938春 | 18歳 | 23 | 35 | 7 | 0 | 2 | 1 | .200 |
| 1938秋 | 18歳 | 39 | 133 | 35 | 3 | 24 | 16 | .263 |
| 1939 | 19歳 | 94 | 343 | 116 | 4 | 75 | 19 | .338 |
| 1940 | 20歳 | 104 | 392 | 122 | 9 | 66 | 27 | .311 |
| 1941 | 21歳 | 86 | 339 | 105 | 4 | 57 | 21 | .310 |
| 1942 | 22歳 | 72 | 274 | 73 | 3 | 27 | 18 | .266 |
| 1946 | 26歳 | 70 | 279 | 85 | 10 | 67 | 13 | .305 |
| 1951 | 31歳 | 97 | 374 | 141 | 15 | 81 | 6 | .377 |
| 1953 | 33歳 | 121 | 467 | 162 | 6 | 77 | 14 | .347 |
| 1955 | 35歳 | 120 | 435 | 147 | 12 | 79 | 33 | .338 |
| 1956 | 36歳 | 128 | 490 | 160 | 5 | 67 | 36 | .327 |
| 1958 | 38歳 | 124 | 435 | 107 | 9 | 66 | 39 | .246 |
すべて巨人の一軍公式戦。年齢は各年12月31日時点の満年齢。1938年は春・秋を別シーズンとして掲載し、1939年以降は年間成績。受賞前後と主要年の成績を掲載した[1]。
◇20歳で本塁打王、21歳で二度目の首位打者
翌1940年は104試合に出場し、打率.311、122安打、9本塁打、66打点。打率は鬼頭数雄の.321に次ぐ2位となり、首位打者の連覇は逃したが、本塁打では1位になった。1941年は86試合で打率.310、105安打、57打点。再び首位打者と打点王となり、初のMVPも受賞した[1][8][9]。
◇戦後も首位打者を重ねた
川上は1939年に初の首位打者となった後、1941年にも打率.310で2度目のタイトルを獲得。戦後は1951年に自己最高の打率.377、374打数で三振わずか6個を記録した。1953年は.347、1955年は.338で首位打者となり、合計5度の受賞を果たした[1][4]。
| 受賞年 | 年齢 | 試合 | 打数 | 安打 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1939 | 19歳 | 94 | 343 | 116 | .338 |
| 1941 | 21歳 | 86 | 339 | 105 | .310 |
| 1951 | 31歳 | 97 | 374 | 141 | .377 |
| 1953 | 33歳 | 121 | 467 | 162 | .347 |
| 1955 | 35歳 | 120 | 435 | 147 | .338 |
川上が首位打者となった5シーズン。1939年と1955年はいずれも表示が.338だが、打数・安打数は異なる[1][4]。
◇史上初の2000安打へ
1956年5月31日の中日戦で、NPB史上初めて通算2000安打を達成した。最終成績は1979試合、2351安打、181本塁打、1319打点、打率.313。19歳で初タイトルを獲得してから長く主力を務めた[1][4][10]。
◇赤バットと「打撃の神様」
赤バットを使い始めたのは、1939年の首位打者獲得より後の1947年。日刊スポーツは大下弘の青バットに対抗して使い始めたと紹介し、野球殿堂博物館には川上の使用バットが収蔵されている[3][11]。
引退後は巨人監督として1965~1973年に9年連続日本一(通称V9)を達成した。監督として知られる川上は、選手時代には19歳で首位打者になった打者でもあった[3][4]。
集計範囲と年齢の扱い
対象はNPB一軍公式戦のシーズン首位打者。1リーグ時代を含み、二軍・オープン戦・ポストシーズン・MLBは含めない。1939年の川上が最年少の19歳という認定は当時の記録を紹介した報道と照合し、個人成績と生年月日はNPB公式で確認した[1][2][3]。
年齢は各受賞年の12月31日時点の満年齢とする。川上は1920年3月23日生まれで、1939年末は19歳。開幕戦の3月18日には18歳だったが、その5日後に19歳になった[1][7]。
主要打者部門の表は1939年の1リーグ全体で集計し、打率の順位はNPB公式の年度別成績を採用した。本塁打・打点・盗塁は記録専門資料も照合。同順位は全員掲載した。空欄の古い記録は0とせず、試合別打撃成績は二次集計に基づく[1][2][5][6]。
2026年の首位打者はセ・リーグの佐藤輝明(打率.306、年末27歳)、パ・リーグのレイエス(打率.313、年末31歳)。最年少記録の更新はない。1939年の試合別データについては記録専門サイトを参照し、当時の公式スコア原本の独立照合は行っていない。資料確認日:2026年10月21日[6][7][12][13][15][16]。