詳細
短い来日生活で残した無敗の記録
レオ・カイリーは、1951年にボストン・レッドソックスで7勝を挙げたメジャー経験者だった。朝鮮戦争に伴う兵役で来日し、米海軍横須賀基地に配属されていた。毎日オリオンズの監督・若林忠志が勧誘し、軍務の休みを使って日本の公式戦に登板する異例の契約が実現した[6][7]。
この「アルバイト投手」は、休日とナイターに登板する条件だったという。当時の報道を紹介した記事によれば、契約は1試合10万円で、同時代の選手の月給4万~5万円を大きく上回る金額だった[6]。
◇初登板は本塁打2本を浴びて勝利
1953年8月8日の西鉄戦(甲府)で日本球界デビュー。4番手として登板し、中西太と塚本悦郎に本塁打を許して3失点したが、それでも勝利投手になった。中西は後年、球が大きくシュートし、スクリューボールが印象的だったと語っている[6]。
カイリーは8月30日までに6試合に登板して6勝0敗。NPB公式記録では45投球回、3完投、1完封、32奪三振、防御率1.80という成績を残した。先発5試合・救援1試合の計6登板で全6勝を挙げている[1][11]。
さらに打撃でも7試合に出場し、19打数10安打、打率.526、3打点。投打ともに異例の数字を残したが、9月には日本を離れ、翌1954年にレッドソックスへ復帰した[1][6][7]。
生涯0敗の投手を勝利数で比べる
2019年のFull-Countの調査では、通算5勝以上を挙げながら0敗で引退した投手は4人とされている。下表は、その4人の勝敗と投球成績をNPBの個人年度別成績で再確認したもので、成績は日本の一軍公式戦のみを集計する[1][2][3][4][5]。
| 順位 | 選手名(球団) | 通算勝敗 | 登板/投球回 | 防御率・実働 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | レオ・カイリー(毎日) | 6勝0敗 | 6試合/45回 | 1.80/1953年 |
| 2 | 山中雅博(阪神) | 5勝0敗 | 31試合/98回2/3 | 2.91/1954~55年 |
| 2 | 香川正人(近鉄) | 5勝0敗 | 19試合/42回1/3 | 4.71/1979年 |
| 2 | 三東洋(阪神) | 5勝0敗 | 27試合/50回2/3 | 4.62/2003~04年 |
通算敗戦0、通算5勝以上の引退選手について、2019年の専門媒体の調査に掲載された4人を示した。NPBが公表する最新の「全選手・0敗で抽出した順位表」ではない。香川の防御率は記事中に4.68とあるが、NPB公式の4.71を採用した[2][4]。2019年以降の新たな該当者がいないことを完全には保証しない。
2位の山中雅博は1954~55年の阪神で31登板、98回2/3、5勝0敗、防御率2.91。香川正人は1979年の近鉄で19登板、5勝0敗、2セーブ、防御率4.71。三東洋は2003~04年の阪神で27登板、5勝0敗、48奪三振、防御率4.62だった[3][4][5]。
4人はキャリアの長さも役割も異なる。カイリーは6登板で6勝し、3完投を記録した一方、ほかの3人には完投がない。0敗という同じ記録でも、すべての登板で圧倒したという意味にはならない[1][3][4][5]。
◇なぜ6勝0敗のまま終われたのか
カイリーの場合は、好投だけでなく「日本での登板期間が極端に短かった」ことが重要だ。1953年7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ、軍務の事情で除隊が早まり、日本球界から離れることになったと伝えられている[6]。
つまり、1か月足らずで6勝を積み上げ、その先の敗戦を経験する前に日本でのキャリアが終わった。これは登板成績と退団事情から考えられる理由であり、「登板を続けていても無敗だった」と断定できるものではない[1][6]。
なお、2019年時点で高木京介は通算7勝0敗だったが、その後敗戦が付き、NPB通算成績は10勝3敗となった。大江竜聖も7勝0敗から2025年に初黒星を喫し、公式記録では7勝1敗である。途中までの無敗連勝と、現時点での「通算0敗」は分ける必要がある[2][9][10]。
またNPBの公式「通算勝率」ランキングは2000投球回以上が対象で、今回の4人はその条件に達していない。勝率1.000だから歴代勝率ランキングに掲載されるというわけではない[8]。
対象はNPB一軍公式戦の投手通算勝敗。実働・登板・投球回の下限なし。現役・引退の別も本来は問わない。過去の「一時点での無敗連勝」やMLBなど他リーグの成績は含めない。6勝は確認できる上位記録だが、NPB公式の敗戦0の全件順位表はなく、現役選手を含む完全な歴代集計で最高と確定したものではない。2026年10月10日確認。