1シーズンのチーム守備率が最も低かった球団は?

失策が重なれば、投手にも打線にも負担がかかる。では、シーズンを通じて守備機会に占める失策の割合が最も大きかったのは、どの球団だろうか。

一般的には?

守備率は、刺殺・補殺・失策の合計に占める、刺殺と補殺の割合。同じシーズンの他球団を合算した比較値は約.951だった。率の差を読む際には、守備機会の数と失策の内訳も見る必要がある[A1][B1]。

同じシーズンの他6球団合算守備率
約0.951

答え

シーズン最低のチーム守備率.923(9割2分3厘)

答えは守備率.923(9割2分3厘)。大東京軍が1936年秋の28試合で記録した。734刺殺、403補殺、95失策、1232守備機会で、(734+403)÷1232=.922889…となる。春秋を別シーズンとして扱う当時の短期シーズンも含めた記録である[A2][B1][B2]。

年
1936年
チーム
大東京軍
カテゴリ
守備・走塁

普通と比べると

同じシーズンの他6球団合算守備率
約0.951
シーズン最低のチーム守備率
0.923

約2.85パーセントポイント低い。

他6球団の7072守備機会・344失策から、(7072-344)÷7072=.951357…を算出。単純平均ではなく守備機会で加重した合算値。投手・捕手・全野手、引き分けを含む1936年秋の公式戦を対象とする。差=(6728÷7072-1137÷1232)×100=2.8467…ポイント。失策割合の比=(95÷1232)÷(344÷7072)=約1.59倍。短期シーズンを除いた歴代記録は参考として本文で別記する[B1]。

詳細

短期シーズンを含めるかで答えが変わる

1936年秋は、現在の年間143試合とは異なる短期シーズンだった。NPBの年度別成績も春と秋を分けて掲載している。本稿は公式のシーズン区分を用いるため、秋の大東京軍を答えとする。短い期間の数字を、現代の一年を通した守備力と同じ条件で比べた認定ではない[A2]。

参考として、1936年~1938年の短期シーズンを除く最低記録は、1939年ライオン軍の.943(9割4分3厘)。96試合、3957守備機会、224失策で、(3957-224)÷3957=.943391…となる。大東京軍の改称後の球団である。記録集の「最低チーム守備率」には短期シーズンを除く条件が付いており、この条件を落とすと答えが食い違って見える[A3][B3]。

守備率は打球をアウトにした割合ではない

守備率の分母は刺殺・補殺・失策の合計。内野ゴロでは送球した選手に補殺、受けた選手に刺殺が付き、一つのアウトに複数の守備機会が生まれる。一方、失策と判定されず安打になった打球は分母に入らない。.923は「打球の92.3%をアウトにした」という意味ではない[A1]。

勝率順で見る創設初年の全7球団

大東京軍は5勝21敗2分け、勝率.192。90得点に対して190失点で、得失点差はマイナス100だった。打率.205は7球団中6番目、防御率4.33と失点190は最も悪い。守備の失敗だけでなく、投打にも苦しい数字が並ぶ[A2]。

勝率順の参考順位とチーム成績

参考順位球団名勝利敗北引分勝率試合打率得点本塁打盗塁防御率失点奪三振完封勝守備率守備機会失策
1大阪タイガース2461.80031.2481785561.79751326.952128462
2東京巨人1890.66727.2101071501.40641826.961110643
3阪急17121.58630.2301355461.90801195.961124449
4名古屋12140.46226.218962303.60133744.949110156
5東京セネタース12160.42928.1851112523.50138821.944123169
6名古屋金鯱9190.32128.2111143493.601511890.941110665
7大東京5212.19228.205900404.331901120.923123295

順位は公式優勝順位ではなく、勝率の高い順による参考順位。大会ごとに勝ち点を与える当時の制度では東京巨人が年度優勝。投打はNPB公式、守備は二次資料の実数を小数第4位で四捨五入した。優勝決定戦は上表の成績に含まれない[A2][B1][B4]。

失策が集中した内野

守備区分刺殺補殺守備機会失策守備率
投手15951122.982
捕手1393418512.935
一塁手300931910.969
二塁手756315618.885
三塁手298513521.844
遊撃手3810717328.838
外野手138101524.974

各守備区分の球団合計。外野手は左・中・右の合算。全区分の刺殺734、補殺403、失策95は球団合計と一致する。捕逸は失策とは別の記録で、この表には含めない[B2]。

遊撃28失策、三塁21失策で、三遊間だけで49個、全失策の約51.6%。二塁18個を加えると67個、約70.5%になる。一方、外野は152守備機会で4失策、守備率.974だった。すべての位置が一様に低かったのではなく、内野の特定区分に失策が集まったことが数字から分かる[B2]。

主な遊撃手の片山栄次は28試合で24失策、守備率.851。漆原進は三塁26試合で17失策、.844、大友一明は二塁25試合で13失策、.894だった。ただし異なる位置の守備率をそのまま選手の能力順位にしてはいけない。扱う打球や機会数、失策の判定が異なるからである[B2]。

代表オーダーは球団初勝利の日

1936年9月19日、阪神甲子園球場の名古屋戦。大東京軍が7対3で球団初勝利を挙げた日の実際の先発を、シーズンを紹介する一例として選んだ。年間の最頻打順ではない。春は0勝13敗1分けで、秋の初戦にも敗れた後の勝利だった[B2][B5]。

先発オーダーと秋の個人成績

打順位置選手名試合打率安打本塁打打点盗塁守備区分守備試合刺殺補殺守備機会失策守備率
1(左)木全竹雄26.15212072外野手243123301.000
2(捕)筒井良武28.18315033捕手231092314210.930
3(右)水谷則一27.260250124外野手27425481.979
4(中)坪内道則28.262270413外野手28541583.948
5(二)大友一明26.131110103二塁手25585212313.894
6(一)伊藤勝三9.2197031一塁手87838101.000
7(投)遠藤忠二郎20.203130112投手132404201.000
8(三)漆原進26.15812041三塁手26246810917.844
9(遊)片山栄次28.15812031遊撃手283610116124.851

打撃・守備は1936年秋だけの成績で、春との年間合算ではない。位置は当日の先発、試合は打撃表の総出場数、守備試合は該当区分の出場数。兼任選手の他区分はこの表に合算しない。外野手は3位置を合算。当日の打撃成績とは集計範囲が異なる[B2][B5]。

先発と救援を担った全5投手の秋成績

選手名登板先発完投完封勝利敗北投球回被安打四球死球奪三振失点自責点防御率失策守備率
遠藤忠二郎1311504585 2/3626525038293.0301.000
桜井七之助1286011082 2/31046622783485.201.971
近藤久124300450464612647244.3201.000
大友一明42100116 2/310907863.181.917
J.ボンナ4300019 2/312131214119.9001.000

秋に登板した全5投手を掲載。投球回の1/3・2/3はアウト数による分数。セーブ・ホールドは当時の記録表が空欄のため0として補わない。二次資料の個人投手・守備成績を使用。球団防御率の資料差は末尾に記す[B2]。

遠藤忠二郎は4勝で球団5勝のうち4勝を挙げ、85回2/3で50奪三振、防御率3.03。桜井七之助は82回2/3で1勝10敗、83失点48自責点だった。両投手だけで球団投球回の約68.8%を占める。18歳の桜井、19歳の遠藤という若い投手に多くのイニングが集まっていた[B2]。

球団の190失点と118自責点の差は72点。ただし72点を「95失策で失った得点」と読み替えることはできない。自責点の判定には失策や捕逸を除いたイニングの再構成が関わり、失策しても失点しない場合がある。投手・守備・四球の影響が絡むため、守備率だけで21敗の原因を切り分けることもできない[A1][B2]。

初勝利も無失策ではなかった

球団名123456789RHE
大東京2100021107112
名古屋100010010384

9月19日のスコアボード。Rは得点、Hは安打、Eは失策。イニング別得点は復元データの数値画像を確認した。大東京の2失策はともに片山に記録されている[B5]。

復元試合データによれば、大東京は二回までに3対1とリード。名古屋は三回から森井茂を救援に送り、大東京の追加点はしばらく止まったが、六回に木全と水谷の二塁打などで2点を加えた。水谷は3安打3打点、遠藤は9回8安打3失点で完投。守備の失敗があっても、投打で初白星をつかんだ試合だった[B5]。

当日の打撃結果を個別に見る

打順位置選手名打数安打打点三振四死球盗塁失策
1(左)木全竹雄3120200
2(捕)筒井良武4100100
3(右)水谷則一5330000
4(中)坪内道則4201100
5(二)大友一明5010000
6(一)伊藤勝三3100200
7(投)遠藤忠二郎3210200
8(三)漆原進3000100
9(遊)片山栄次4100002

各選手の試合合計で、打席順の経過ではない。合計は34打数11安打7打点、1三振9四死球、0盗塁2失策。三塁打は水谷・遠藤・片山、二塁打は木全・水谷。安打方向、各打席のイニング、失策の具体的なプレー内容は未確認[B5]。

数字で説明できることとできないこと

同時期の他6球団も合算で344失策していた。創設初年という共通条件の中でも、大東京の守備機会あたりの失策割合は他球団合算の約1.59倍。短期シーズンだったという事情だけでは、同じ時期の球団との差を説明できない。三遊間などの失策の多さが守備率を押し下げた、という数字上の説明はできる[B1][B2]。

一方、選手の技術、練習量、球場の状態、用具の質のどれが決定的だったかを特定できる当時の取材記事は確認できなかった。若い選手が多かった事実や、球団経営が苦しかったという後年の回想を、そのまま失策増加の原因として結び付けることは避ける[A3][B2]。

経営難からライオン軍への改称

ライオンの企業史は、球団代表だった鈴木龍二の回顧録を紹介し、国民新聞社を母体とする大東京軍が支援先を探していた経緯を伝えている。小林商店との支援契約は翌1937年8月1日。球団名をライオンとする条件で、毎月800円の支援が決まったという。これは後年の回想を企業史が紹介したもので、1936年秋の失策の原因を語る直接証言ではない[A3]。

守備の失敗だけでは終わらない後日談

同じ系譜のライオン軍は、1938年10月23日の名古屋戦で、プロ野球史上初の三重殺を記録したとライオンの企業史が伝える。走者一・二塁、二塁へのライナーから飛び出した走者もアウトにしたプレーだった。最低守備率を残した球団の歴史には、守備で三つのアウトを一度に取った場面もある[A3]。

確認範囲と資料の相違

確認日2026年10月11日。対象は日本の一軍公式戦の球団シーズン守備率で、1936年~1938年の春秋別シーズンを含む。1936年~2025年はmy favorite giantsの年度別守備表92ページ・1074球団シーズンについて守備機会と失策から未丸め値を比較し、最小は1936年秋大東京だった。1945年は公式戦なし。2026年はNPB両リーグの12球団を別途確認した。ポストシーズン、二軍、オープン戦、海外リーグは対象外[A4][B1][B6]。

歴代守備成績は二次資料の編纂値で、大東京の実数はウスコイ企画の表でも照合した。当時の公式スコアカードや全新聞原紙の再集計ではない。年度別守備表の率は小数第5位まで表示されるため、本稿の.923などは実数から小数第4位で四捨五入している[B1][B2]。

球団防御率はNPB公式が4.33、ウスコイ企画が4.34とする。比較表は公式4.33を採用し、個人表は復元資料に従った。差の原因は未確認。失点190、投球回244回2/3は一致する。代表試合のオーダー、打撃結果、試合の流れは二次資料による復元であり、当時の原紙との全項目照合はできていない[A2][B2][B5]。

何がすごいのか

  • 28試合で95失策、1試合あたり約3.39個。守備機会の約7.71%が失策だった[B1][B2]。
  • 同じシーズンの他6球団合算より、未丸めの守備率で約2.85パーセントポイント低い[B1]。
  • 三遊間の失策は49個。低い守備率の中身を、位置別にたどれる記録でもある[B2]。

出典