詳細
短期シーズンを含めるかで答えが変わる
1936年秋は、現在の年間143試合とは異なる短期シーズンだった。NPBの年度別成績も春と秋を分けて掲載している。本稿は公式のシーズン区分を用いるため、秋の大東京軍を答えとする。短い期間の数字を、現代の一年を通した守備力と同じ条件で比べた認定ではない[A2]。
参考として、1936年~1938年の短期シーズンを除く最低記録は、1939年ライオン軍の.943(9割4分3厘)。96試合、3957守備機会、224失策で、(3957-224)÷3957=.943391…となる。大東京軍の改称後の球団である。記録集の「最低チーム守備率」には短期シーズンを除く条件が付いており、この条件を落とすと答えが食い違って見える[A3][B3]。
守備率は打球をアウトにした割合ではない
守備率の分母は刺殺・補殺・失策の合計。内野ゴロでは送球した選手に補殺、受けた選手に刺殺が付き、一つのアウトに複数の守備機会が生まれる。一方、失策と判定されず安打になった打球は分母に入らない。.923は「打球の92.3%をアウトにした」という意味ではない[A1]。
勝率順で見る創設初年の全7球団
大東京軍は5勝21敗2分け、勝率.192。90得点に対して190失点で、得失点差はマイナス100だった。打率.205は7球団中6番目、防御率4.33と失点190は最も悪い。守備の失敗だけでなく、投打にも苦しい数字が並ぶ[A2]。
勝率順の参考順位とチーム成績
| 参考順位 | 球団名 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | 試合 | 打率 | 得点 | 本塁打 | 盗塁 | 防御率 | 失点 | 奪三振 | 完封勝 | 守備率 | 守備機会 | 失策 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 大阪タイガース | 24 | 6 | 1 | .800 | 31 | .248 | 178 | 5 | 56 | 1.79 | 75 | 132 | 6 | .952 | 1284 | 62 |
| 2 | 東京巨人 | 18 | 9 | 0 | .667 | 27 | .210 | 107 | 1 | 50 | 1.40 | 64 | 182 | 6 | .961 | 1106 | 43 |
| 3 | 阪急 | 17 | 12 | 1 | .586 | 30 | .230 | 135 | 5 | 46 | 1.90 | 80 | 119 | 5 | .961 | 1244 | 49 |
| 4 | 名古屋 | 12 | 14 | 0 | .462 | 26 | .218 | 96 | 2 | 30 | 3.60 | 133 | 74 | 4 | .949 | 1101 | 56 |
| 5 | 東京セネタース | 12 | 16 | 0 | .429 | 28 | .185 | 111 | 2 | 52 | 3.50 | 138 | 82 | 1 | .944 | 1231 | 69 |
| 6 | 名古屋金鯱 | 9 | 19 | 0 | .321 | 28 | .211 | 114 | 3 | 49 | 3.60 | 151 | 189 | 0 | .941 | 1106 | 65 |
| 7 | 大東京 | 5 | 21 | 2 | .192 | 28 | .205 | 90 | 0 | 40 | 4.33 | 190 | 112 | 0 | .923 | 1232 | 95 |
順位は公式優勝順位ではなく、勝率の高い順による参考順位。大会ごとに勝ち点を与える当時の制度では東京巨人が年度優勝。投打はNPB公式、守備は二次資料の実数を小数第4位で四捨五入した。優勝決定戦は上表の成績に含まれない[A2][B1][B4]。
失策が集中した内野
| 守備区分 | 刺殺 | 補殺 | 守備機会 | 失策 | 守備率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 投手 | 15 | 95 | 112 | 2 | .982 |
| 捕手 | 139 | 34 | 185 | 12 | .935 |
| 一塁手 | 300 | 9 | 319 | 10 | .969 |
| 二塁手 | 75 | 63 | 156 | 18 | .885 |
| 三塁手 | 29 | 85 | 135 | 21 | .844 |
| 遊撃手 | 38 | 107 | 173 | 28 | .838 |
| 外野手 | 138 | 10 | 152 | 4 | .974 |
各守備区分の球団合計。外野手は左・中・右の合算。全区分の刺殺734、補殺403、失策95は球団合計と一致する。捕逸は失策とは別の記録で、この表には含めない[B2]。
遊撃28失策、三塁21失策で、三遊間だけで49個、全失策の約51.6%。二塁18個を加えると67個、約70.5%になる。一方、外野は152守備機会で4失策、守備率.974だった。すべての位置が一様に低かったのではなく、内野の特定区分に失策が集まったことが数字から分かる[B2]。
主な遊撃手の片山栄次は28試合で24失策、守備率.851。漆原進は三塁26試合で17失策、.844、大友一明は二塁25試合で13失策、.894だった。ただし異なる位置の守備率をそのまま選手の能力順位にしてはいけない。扱う打球や機会数、失策の判定が異なるからである[B2]。
代表オーダーは球団初勝利の日
1936年9月19日、阪神甲子園球場の名古屋戦。大東京軍が7対3で球団初勝利を挙げた日の実際の先発を、シーズンを紹介する一例として選んだ。年間の最頻打順ではない。春は0勝13敗1分けで、秋の初戦にも敗れた後の勝利だった[B2][B5]。
先発オーダーと秋の個人成績
| 打順 | 位置 | 選手名 | 試合 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 守備区分 | 守備試合 | 刺殺 | 補殺 | 守備機会 | 失策 | 守備率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | (左) | 木全竹雄 | 26 | .152 | 12 | 0 | 7 | 2 | 外野手 | 24 | 31 | 2 | 33 | 0 | 1.000 |
| 2 | (捕) | 筒井良武 | 28 | .183 | 15 | 0 | 3 | 3 | 捕手 | 23 | 109 | 23 | 142 | 10 | .930 |
| 3 | (右) | 水谷則一 | 27 | .260 | 25 | 0 | 12 | 4 | 外野手 | 27 | 42 | 5 | 48 | 1 | .979 |
| 4 | (中) | 坪内道則 | 28 | .262 | 27 | 0 | 4 | 13 | 外野手 | 28 | 54 | 1 | 58 | 3 | .948 |
| 5 | (二) | 大友一明 | 26 | .131 | 11 | 0 | 10 | 3 | 二塁手 | 25 | 58 | 52 | 123 | 13 | .894 |
| 6 | (一) | 伊藤勝三 | 9 | .219 | 7 | 0 | 3 | 1 | 一塁手 | 8 | 78 | 3 | 81 | 0 | 1.000 |
| 7 | (投) | 遠藤忠二郎 | 20 | .203 | 13 | 0 | 11 | 2 | 投手 | 13 | 2 | 40 | 42 | 0 | 1.000 |
| 8 | (三) | 漆原進 | 26 | .158 | 12 | 0 | 4 | 1 | 三塁手 | 26 | 24 | 68 | 109 | 17 | .844 |
| 9 | (遊) | 片山栄次 | 28 | .158 | 12 | 0 | 3 | 1 | 遊撃手 | 28 | 36 | 101 | 161 | 24 | .851 |
打撃・守備は1936年秋だけの成績で、春との年間合算ではない。位置は当日の先発、試合は打撃表の総出場数、守備試合は該当区分の出場数。兼任選手の他区分はこの表に合算しない。外野手は3位置を合算。当日の打撃成績とは集計範囲が異なる[B2][B5]。
先発と救援を担った全5投手の秋成績
| 選手名 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 被安打 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | 失策 | 守備率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 遠藤忠二郎 | 13 | 11 | 5 | 0 | 4 | 5 | 85 2/3 | 62 | 65 | 2 | 50 | 38 | 29 | 3.03 | 0 | 1.000 |
| 桜井七之助 | 12 | 8 | 6 | 0 | 1 | 10 | 82 2/3 | 104 | 66 | 2 | 27 | 83 | 48 | 5.20 | 1 | .971 |
| 近藤久 | 12 | 4 | 3 | 0 | 0 | 4 | 50 | 46 | 46 | 1 | 26 | 47 | 24 | 4.32 | 0 | 1.000 |
| 大友一明 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 16 2/3 | 10 | 9 | 0 | 7 | 8 | 6 | 3.18 | 1 | .917 |
| J.ボンナ | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 2/3 | 12 | 13 | 1 | 2 | 14 | 11 | 9.90 | 0 | 1.000 |
秋に登板した全5投手を掲載。投球回の1/3・2/3はアウト数による分数。セーブ・ホールドは当時の記録表が空欄のため0として補わない。二次資料の個人投手・守備成績を使用。球団防御率の資料差は末尾に記す[B2]。
遠藤忠二郎は4勝で球団5勝のうち4勝を挙げ、85回2/3で50奪三振、防御率3.03。桜井七之助は82回2/3で1勝10敗、83失点48自責点だった。両投手だけで球団投球回の約68.8%を占める。18歳の桜井、19歳の遠藤という若い投手に多くのイニングが集まっていた[B2]。
球団の190失点と118自責点の差は72点。ただし72点を「95失策で失った得点」と読み替えることはできない。自責点の判定には失策や捕逸を除いたイニングの再構成が関わり、失策しても失点しない場合がある。投手・守備・四球の影響が絡むため、守備率だけで21敗の原因を切り分けることもできない[A1][B2]。
初勝利も無失策ではなかった
| 球団名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大東京 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 0 | 7 | 11 | 2 |
| 名古屋 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 8 | 4 |
9月19日のスコアボード。Rは得点、Hは安打、Eは失策。イニング別得点は復元データの数値画像を確認した。大東京の2失策はともに片山に記録されている[B5]。
復元試合データによれば、大東京は二回までに3対1とリード。名古屋は三回から森井茂を救援に送り、大東京の追加点はしばらく止まったが、六回に木全と水谷の二塁打などで2点を加えた。水谷は3安打3打点、遠藤は9回8安打3失点で完投。守備の失敗があっても、投打で初白星をつかんだ試合だった[B5]。
当日の打撃結果を個別に見る
| 打順 | 位置 | 選手名 | 打数 | 安打 | 打点 | 三振 | 四死球 | 盗塁 | 失策 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | (左) | 木全竹雄 | 3 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 |
| 2 | (捕) | 筒井良武 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 |
| 3 | (右) | 水谷則一 | 5 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 4 | (中) | 坪内道則 | 4 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 |
| 5 | (二) | 大友一明 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 6 | (一) | 伊藤勝三 | 3 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 |
| 7 | (投) | 遠藤忠二郎 | 3 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 |
| 8 | (三) | 漆原進 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 |
| 9 | (遊) | 片山栄次 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
各選手の試合合計で、打席順の経過ではない。合計は34打数11安打7打点、1三振9四死球、0盗塁2失策。三塁打は水谷・遠藤・片山、二塁打は木全・水谷。安打方向、各打席のイニング、失策の具体的なプレー内容は未確認[B5]。
数字で説明できることとできないこと
同時期の他6球団も合算で344失策していた。創設初年という共通条件の中でも、大東京の守備機会あたりの失策割合は他球団合算の約1.59倍。短期シーズンだったという事情だけでは、同じ時期の球団との差を説明できない。三遊間などの失策の多さが守備率を押し下げた、という数字上の説明はできる[B1][B2]。
一方、選手の技術、練習量、球場の状態、用具の質のどれが決定的だったかを特定できる当時の取材記事は確認できなかった。若い選手が多かった事実や、球団経営が苦しかったという後年の回想を、そのまま失策増加の原因として結び付けることは避ける[A3][B2]。
経営難からライオン軍への改称
ライオンの企業史は、球団代表だった鈴木龍二の回顧録を紹介し、国民新聞社を母体とする大東京軍が支援先を探していた経緯を伝えている。小林商店との支援契約は翌1937年8月1日。球団名をライオンとする条件で、毎月800円の支援が決まったという。これは後年の回想を企業史が紹介したもので、1936年秋の失策の原因を語る直接証言ではない[A3]。
守備の失敗だけでは終わらない後日談
同じ系譜のライオン軍は、1938年10月23日の名古屋戦で、プロ野球史上初の三重殺を記録したとライオンの企業史が伝える。走者一・二塁、二塁へのライナーから飛び出した走者もアウトにしたプレーだった。最低守備率を残した球団の歴史には、守備で三つのアウトを一度に取った場面もある[A3]。
確認範囲と資料の相違
確認日2026年10月11日。対象は日本の一軍公式戦の球団シーズン守備率で、1936年~1938年の春秋別シーズンを含む。1936年~2025年はmy favorite giantsの年度別守備表92ページ・1074球団シーズンについて守備機会と失策から未丸め値を比較し、最小は1936年秋大東京だった。1945年は公式戦なし。2026年はNPB両リーグの12球団を別途確認した。ポストシーズン、二軍、オープン戦、海外リーグは対象外[A4][B1][B6]。
歴代守備成績は二次資料の編纂値で、大東京の実数はウスコイ企画の表でも照合した。当時の公式スコアカードや全新聞原紙の再集計ではない。年度別守備表の率は小数第5位まで表示されるため、本稿の.923などは実数から小数第4位で四捨五入している[B1][B2]。
球団防御率はNPB公式が4.33、ウスコイ企画が4.34とする。比較表は公式4.33を採用し、個人表は復元資料に従った。差の原因は未確認。失点190、投球回244回2/3は一致する。代表試合のオーダー、打撃結果、試合の流れは二次資料による復元であり、当時の原紙との全項目照合はできていない[A2][B2][B5]。