最も観客数が少なかった試合

プロ野球は日本の国民的スポーツ。いつの時代も…どの球団も…?

一般的には?

満員の球場ばかりがプロ野球の歴史ではない。優勝争いが終わった時期や、集客に苦しむ球団の試合では、客席に空席が目立つこともある。ただし、写真で数えた人数、入場券の実売枚数、公表された観客数は、それぞれ別の数字だ。本記事では日本のプロ野球一軍公式戦を対象に、資料に掲載された観客数を調べる。意図的な無観客開催は対象外とする。

1966年セ・リーグの1試合平均
15,234人

答え

照合できた観客数の最小掲載値100人

今回、日付・対戦・観客数を試合別資料で照合できた最小の掲載値は100人で、1954年10月25日の大映対阪急と、1966年10月12日のサンケイ対中日の各ダブルヘッダーに記載されている[B1][B2][B3][B4]。

年
1954年 1966年
チーム
大映スターズ/阪急ブレーブス(1954年) サンケイアトムズ/中日ドラゴンズ(1966年)
カテゴリ
チーム・試合

普通と比べると

1966年セ・リーグの1試合平均
15,234人
1966年の最小掲載値
100人

同年リーグ平均の約0.66%

計算:100÷15,234×100=約0.6564%。平均はNPB公表値。公式戦401試合の総入場者6,108,850人を基にした年度平均で、引き分けを含む。サンケイの主催試合だけの平均でも、川崎球場だけの平均でもない。1954年の試合にはこの比較を適用しない[A1]。

詳細

100人の根拠は、民間の試合記録集「日本プロ野球記録」の各試合ページである。当日の球団発表原本や公式スコアカード自体は未確認のため、「NPBが認定した歴代最少」とは断定しない。さらに少ない90人説は後述するが、公表値だったかどうかと試合の特定に問題が残る。

◇確認できた小さな数字

掲載値日付対戦/球場資料と扱い
100人1954年10月25日大映対阪急/川崎 第1・第2試合とも民間試合記録集[B1][B2]
100人1966年10月12日サンケイ対中日/川崎 第1・第2試合とも民間試合記録集[B3][B4]
200人1954年10月25日 1955年10月10日阪神対巨人/甲子園 両日合わせて3試合NPB記録員コラム[A2]
300人1956年7月21日大映対近鉄/千葉公園 第1・第2試合ともNPB記録員コラム[A3]
350人1955年10月6日トンボ対近鉄/川崎Number Webが球団発表値として紹介[C1]

歴代ランキングではなく、今回の調査で確認できた主要例。ダブルヘッダーの人数を足して、その日のユニークな来場者数に換算することはしない。

◇川崎に残る二つのダブルヘッダー

◇1954年10月25日 大映対阪急 川崎球場

第1試合の19回戦、第2試合の20回戦とも、試合資料の観客数は100人。開催年は、個別の試合ページで確認できる1954年である[B1][B2]。

チーム123456789101112RHE
阪急0000000020002100
大映000000200000260

出典 [B1]

第1試合は2対2で延長12回引き分け。大映が7回に先制し、阪急が9回に追いついた。梶本隆夫と高松利夫が、ともに12回を投げ切った[B1]。

チーム123456789RHE
阪急000101000271
大映00303100X7120

出典 [B2]

第2試合は大映が7対2で勝利。3回と5回に3点ずつを挙げ、小川善治が完投した[B2]。

◇当時のチーム状況

1954年の大映は43勝92敗5分、8球団中最下位。阪急も66勝70敗4分の5位で、いずれも優勝を争ったチームではなかった。これは最終成績であり、当日の順位を示した表ではない[A4]。

推察としては、シーズン末の下位球団同士の対戦で、優勝争いの緊張感が乏しかったことが集客の弱さにつながった可能性がある。ただし、当日の天候、宣伝、入場料、交通事情を直接の原因とする資料は今回確認できていない。

◇観客数と試合の見どころ

◇1966年10月12日 サンケイ対中日 川崎球場

こちらも26回戦・27回戦とも100人と記載されている。少人数の客席の前で、2試合は1勝1敗に終わった[B3][B4]。

チーム123456789RHE
中日000010201470
サンケイ000000001152

出典 [B3]

第1試合は中日が4対1。木俣達彦が7号・8号・9号の3本塁打を放ち、全4打点を挙げた。観客が少なかった試合にも、見逃せない個人記録がある[B3]。

チーム123456789RHE
中日000002000271
サンケイ11000001X381

出典 [B4]

第2試合はサンケイが3対2で勝利。6回に追いつかれたが、8回に勝ち越した。ジャクソンの20号本塁打も記録されている[B4]。

◇同じ日に始まった日本シリーズ

この日は後楽園で巨人対南海の日本シリーズ第1戦が13時に始まり、公表入場者数は27,145人だった。リーグ優勝がすでに決まった後の公式戦と、日本一を決める舞台が同じ日に並んでいた[A5]。

1966年の最終成績は中日が2位で76勝54敗2分。サンケイは52勝78敗5分、NPBの勝敗表では大洋と同じ勝率.400で下位に並ぶ。相手が弱いから人が入らなかった、だけでは説明しきれない[A6]。

推察としては、優勝決定後の残り試合であったことに加え、同じ首都圏で日本シリーズが開幕したことが、観戦や報道の関心をそちらへ向けた可能性がある。日本シリーズが川崎の客を奪ったと直接証明する資料はなく、観客が少なかった主因の確定まではできない。

◇人気カードでも消化試合は静かだった

NPB公式記録員のコラムは、阪神対巨人でも観衆200人の公式記録が3試合残ると紹介する。1954年10月25日と1955年10月10日の甲子園で、リーグ優勝決定後の試合だったという。200人はこの記事の対象である「伝統の一戦」の最少であり、全カードの歴代最少を意味しない[A2]。

◇小さな数字をどう読むか

◇地方開催を選ばざるを得なかった球団

1956年7月21日、千葉公園市営球場の大映対近鉄は、ダブルヘッダー2試合とも観衆300人だった。NPB記録員コラムによると、試合前の近鉄は8球団中5位、大映は最下位。大映は後楽園を本拠地としていたが、複数球団で共用しており、翌日には銚子へ移って再び2試合を行った[A3]。

同コラムは、後楽園の日程を組む際の興行上の優先関係も背景として挙げる。球団の人気だけでなく、球場を専用で使えない時代の事情が地方開催につながっていた。集客の少なさを、選手の力量だけに帰すことはできない[A3]。

◇29人という有名な話は350人として扱う

Number Webは、1955年10月6日のトンボ対近鉄について、球団発表は350人だったと紹介している。同時に、球団史の書籍に入場券の実売枚数29枚という記述があると伝える。29枚は公表観客数の29人ではないため、本記事の最少値には採用しない[C1]。

この試合にはスタルヒンが代打で出場し、黒田博樹の父・黒田一博が中堅で先発したという。小さな公表値の裏にも、選手の歴史が残っている。書籍自体を直接確認したものではなく、ここでの根拠はNumber Webの記事である[C1]。

◇90人説は試合の特定に問題が残る

個人ブログ「洲崎球場物語」には、1937年7月17日のイーグルス対金鯱が90人だったという記述がある。ただし、元の新聞記事や球団発表を示す出典は付されていない。実際の目撃人数か、公表された観客数かも判別できない[C2]。

さらに試合記録集では、7月17日のイーグルスの対戦相手は大東京で、2試合が記録されている。イーグルス対金鯱の7回戦は7月13日である。日付と対戦が一致しないため、90人を確定値としては採用しない。日付を勝手に7月13日に直して90人を結び付けることもしない[B5][B6][B7]。

◇調査の範囲

確認日:2026-10-05。対象は日本のプロ野球一軍公式戦。NPB公式の歴史コラム・年度成績・入場者統計、民間試合記録集、メディア記事を照合した。1936年以降の全試合の原本を網羅した調査ではない。二軍、独立リーグ、MLB、オープン戦は対象外。2020年などの意図的な無観客開催は除外し、実測人数や入場券実売枚数を公表観客数へ置き換えていない。

全資料の確認日 2026-10-05。AはNPB公式資料、Bは民間試合記録集、Cはメディア・個人ブログ。100人の当日発表原本は未確認。新聞紙面そのものの原本も今回直接閲覧していない。

何がすごいのか

  • 同じ100人でも、延長12回の投手戦と、1試合3本塁打の試合がある。
  • 公式資料の200人・300人の例にも、優勝決定後や球場共用という背景がある。
  • 「人がいなかった」という逸話を、公表値と資料の確かさに分けて読むと、別の球団史が見えてくる。

出典