天候以外の理由で中止になった試合 ①

試合を止めるのは、雨だけではない。天候以外の事情で開催できなくなった事例を、一つずつたどるシリーズ。第1回は、その後の球場の歴史にも影響した出来事。

一般的には?

プロ野球の試合中止で思い浮かぶのは、雨でグラウンドが使えない場合だろう。神宮球場の案内でも、中止は当日の天候状況や予報によって決まると説明されている。しかし、選手と観客が集まり、試合が始まっていても、競技を続けるための条件が突然失われることがある。このシリーズでは、天候以外の事情が直接の理由となった事例を取り上げる[9]。

答え

試合を続けられなくなった理由球場の火災

第1回の答えは、試合中に発生した球場の火災。1951年8月19日、中日球場で行われた名古屋ドラゴンズ―読売ジャイアンツ戦は、3回裏にスタンドから出火し、ノーゲームになった。球場は大きく焼失し、その日の試合だけでなく、残りのシーズンの開催場所にも影響した[1][2][3][7]。

年
1951年
チーム
名古屋ドラゴンズ/読売ジャイアンツ
カテゴリ
ルール・珍事

詳細

◇3回裏に競技から避難へ切り替わった

1951年8月19日は日曜日。中日球場では、国鉄―広島戦に続いて名古屋―巨人戦が組まれていた。日程資料では、第1試合は広島が5対2で勝利し、第2試合の名古屋―巨人はノーゲームと記録されている。同じ球場で予定された2試合のうち、途中で成立しなくなったのは後者だった[2]。

中日映画社の映像資料の説明によると、3回裏に入ったところで、ネット裏の指定席付近から火の手が上がった。木造の内野スタンドなどに燃え広がり、観客の避難が必要になった。単に長い中断の末に再開した試合ではなく、その日の試合はノーゲームとなった[2][3]。

当日の試合と中止の扱い
項目確認できる内容
日付1951年8月19日 日曜日
対戦名古屋ドラゴンズ―読売ジャイアンツ
球場中日球場 名古屋市
競技の段階3回裏 名古屋の攻撃中
直接の理由観客席からの火災と球場の焼失
試合の扱いノーゲーム

対戦とノーゲームの扱いは日程資料、出火時のイニングは映像資料の説明で確認。球場の焼失日は球団とNPBの年表でも一致する。表は正式な試合の最終スコアを示すものではない[1][2][3][8]。

◇本拠地を失ってもシーズンは続いた

試合を止めた影響は、その日だけで終わらなかった。球場が使用できなくなった名古屋は、鳴海球場など別の球場を使って残りの試合を戦った。8月の日程からも、鳴海、彦根、四日市、刈谷などで試合が行われたことを確認できる[2][6][7]。

日付球場名古屋の試合結果
8月19日中日球場対巨人 ノーゲーム
8月21日大阪スタヂアム対国鉄 4-7
8月26日鳴海球場対国鉄 7-3/対巨人 6-7
8月28日彦根球場対松竹 11-3
8月29日四日市球場対広島 5-4
8月30日刈谷球場対広島 5-4/対松竹 4-1

全て1951年。火災後の開催場所を示すために抽出した日程であり、残り全試合の一覧ではない。8月26日と30日は同じ球場で名古屋が2試合を行った。大阪での試合を火災による会場変更と個別に断定しない。各球場は日程資料の略称を読みやすく表記した[2]。

◇観客席にいた後のドラゴンズの名選手

回顧記事によると、当時10歳の高木守道もこの試合を観客席で見ていた。後にドラゴンズの主力選手、監督となる人物が、少年時代に球場の火災に居合わせていたという、球団史につながるエピソードも残っている[7]。

◇翌春の再建球場でも同じ両先発が対した

球団の公式年表によると、中日球場は翌1952年4月5日に新装完成し、名古屋―巨人戦でこけら落としを迎えた。再建された観客席は鉄筋コンクリートを用いた造りへ変わった[1][10]。

Number Webは、この新装球場で先発したのも杉下茂で、相手の先発も火災当日と同じ別所毅彦だったと伝えている。また、球場には祭壇が設けられ、試合を中断して黙祷が捧げられたという。杉下は、火災の翌日に選手たちが病院を訪れたことと、被害に遭った人たちを思いながら再び野球に向き合ったことを回想している[6]。

主な経過
時期球団と球場の出来事
1948年中日スタヂアム完成
1951年球団名が中日ドラゴンズから名古屋ドラゴンズへ変更
1951年8月19日名古屋―巨人戦の途中で火災、ノーゲーム
1951年の残り日程鳴海など他球場で試合を継続
1952年4月5日再建球場で名古屋―巨人戦を開催
1954年球団名を中日ドラゴンズへ戻す

完成年・改称・新装完成日は球団史、火災後の日程は専門日程資料と回顧記事を照合した。火災と順位の変化の因果関係や、再建費用・球団の経営損失は算定していない[1][2][6]。

被害人数と時刻の資料差
資料出火時刻の記載死者負傷者の記載
東京消防庁 事例1 本文10頁14時50分頃4人318人
東京消防庁 表2-1-1 本文7頁記載なし4人359人
中日映画社 映像資料の説明午後4時ごろ3人重軽傷368人
愛知県図書館 レファレンス回答記載なし3人318人
Number Web 杉下茂の回想記事15時58分4人重軽傷300人超

東京消防庁の頁は紙面に印刷された頁番号で、PDFの1頁目が本文7頁、4頁目が本文10頁に当たる。愛知県図書館は球場記念誌と球団五十年史に書かれた人数を紹介しており、原本そのものを今回閲覧したわけではない。人数は各資料の記載をそのまま対照し、合算・平均・訂正をしない[3][4][5][6]。

◇火災が拡大した背景と選手の証言

東京消防庁の資料は、木造の観客席で火が座席の下を横に広がったことと、観客が出口やグラウンド側へ集中したことを報告している。同日には小さな火災が繰り返され、消防隊や関係者が消火し、吸い殻の始末を注意するアナウンスもあったという。中日映画社の説明では、出火原因はたばこの火の不始末とみられている[3][4]。

火の発生、燃えやすい観客席、避難時の混雑が重なった事故として読むことができる。強風が延焼を助けたとする資料はあるが、雨や風のため競技ができなくなったという事例ではなく、直接の中止理由は球場での火災だった。この背景の整理は、資料を照合した考察である[3][4][6]。

当日先発した杉下茂は、後年の取材で、フェンスを越えてグラウンドへ降りようとする観客を選手たちが受け止めた状況を語った。Number Webの記事は、両チームの選手が避難を助けたと伝えている。マウンドで投げていた選手が、競技を離れて観客を助ける立場に回ったことが、当日の切迫した状況を示している[6]。

資料の確認範囲

本記事はNPB一軍公式戦の一つの事例を扱う。歴代最初・最大・唯一の火災中止という認定は行わない。試合前の開催取りやめだけでなく、開始後に打ち切られ、ノーゲームとなった試合もシリーズに含める。一時中断して再開しただけの試合とは区別する[2]。

球団名は当時の「名古屋ドラゴンズ」、球場名は「中日球場」とし、資料で使われる「中日スタジアム」「中日スタヂアム」も同じ球場を指す。現在のナゴヤ球場につながる場所で、ナゴヤドームとは別である。球団は1954年に中日ドラゴンズへ名称を戻した[1][8]。

人的被害の人数、出火時刻、出火地点の細部には資料差がある。本文では死傷者の数を一つに確定せず、資料差の表に各資料の記載を残した。人数の違いが集計時点や対象の違いによるかは、今回確認した資料だけでは確定できない。消防資料自身にも表と事例本文で負傷者数の差がある。出火原因も「たばこの火の不始末とみられる」とし、独自に断定しない[3][4][5][6]。

当日の途中スコア、全打席の結果、正式な中止宣告時刻は確認できていないため、スコアボードやオーダー表を推測で作らない。掲載した後日の名古屋―巨人戦を、このノーゲームの特定の振替試合と認定することもしていない。資料確認日:2026年10月13日[2]。

何がすごいのか

  • 試合中止の理由は、グラウンドの状態だけでは説明できない。この事例では観客席の火災が避難を必要にし、本拠地球場の再建と、開催場所の変更にまでつながった。選手の回想と球団史を併せて読むと、日程表の「ノーゲーム」の一言の背後にあった状況が見えてくる[1][2][6][7]。

出典