詳細
プロ入り前から名を知られた投手
浜崎真二は1901年12月10日生まれの左投左打の投手。広島商、神戸商を経て慶應義塾大学で投げ、1927年秋の早慶戦では完封勝利を記録した。社会人の大連満州倶楽部でも投打の主力を務め、1941年の明治神宮大会ではエースとして全国制覇に貢献している[2][3]。
◇若い頃にはプロの誘いを断っていた
週刊ベースボールの回顧記事によると、1934年、33歳の浜崎は巨人の前身となる球団から勧誘を受けた。しかしプロ野球の将来を慎重に見て、この誘いを断ったとされる。翌々年には日本の職業野球リーグが発足しており、プロ入りが遅れた一因として興味深い逸話だ[1]。
その後も満州の野球界で活動を続け、戦後に日本へ引き揚げた。1947年に阪急のユニフォームを着たとき、すでに満45歳。プロ以前に長い実績があり、戦争と海外での活動、戦前の誘いを断った経緯を経た末の入団だった[1][2]。
1947年の入団時期について、専門媒体は「シーズン途中」と記す一方、NPB在籍者名簿は同年を「開幕~途中 阪急、途中~閉幕 阪急(兼総監)」と区分している。このため入団の正確な月日は特定しない[1][4]。
監督も兼ねた異色のプロ生活
NPBの公式記録では、1947年は4試合に登板して1勝0敗、1948年は17試合で3勝3敗、1949年は投手として出場せず、1950年は9試合で1勝2敗。通算は30登板、5勝5敗、105投球回、23奪三振、防御率4.03だった[5]。
投手としての全盛期はプロ入り前だった。学生時代には精密な制球力を伴う速球で知られ、晩年のプロ登板時には球威だけでなく投球術で打者に対抗するタイプになっていたと伝えられる。NPBの登録身長は156cm、体重50kgという小柄な体格だった[1][5]。
打撃でも一軍通算32試合、36打数10安打、打率.278を残した。1948年の打率は.316(19打数6安打)。主戦場はマウンドながら、投打ともに実績を残した戦前の野球人らしい記録といえる[5]。
◇48歳同士の監督が先発した試合
1950年11月5日の阪急対毎日戦では、48歳10か月の浜崎と、48歳1か月の毎日・湯浅禎夫総監督がそろって先発登板した。かつて学生野球で競い合った投手同士による、観客向けの話題づくりの側面を持つ異例の対戦だった。湯浅のNPB公式戦出場はこの1試合だけで、4投球回、2失点だった[6][7]。
浜崎は1950年に48歳4か月で勝利投手になり、当時の最年長勝利記録も保持した。この記録は2014年、山本昌が49歳25日で更新している。最年長「入団」と最年長「勝利」「出場」はそれぞれ別の記録だ[1][8]。
選手引退後も阪急、高橋・トンボ、国鉄で監督を務め、1978年には野球殿堂入りした。野球殿堂博物館は浜崎を「48歳で投げた小さな大投手」と紹介している[2]。
では、48歳で初出場した湯浅禎夫の方が遅いプロ入りではないのか。湯浅は毎日の総監督として球団に迎えられ、後に投手として公式戦へ1度だけ出場した人物だ。そのため本記事では、監督としての就任後に登板した例と、浜崎の「選手として初めてプロ入りした」経歴を分けて扱っている[1][6][7]。
この記事の年齢は生年月日に基づく満年齢。「最年長プロ入り」は週刊ベースボールが記録として紹介した選手としての初入団に基づき、NPBが全歴代入団者の年齢ランキングを公表したものではない。年齢22歳との比較は大学卒業直後の便宜的な目安。資料確認日:2026年10月10日。