無得点の最多連続試合数

貧打に次ぐ貧打。スコアボードに並ぶたこ焼きに、爪楊枝はいつ付くのか。

一般的には?

無得点とは、試合終了までチームが1点も挙げられなかったこと。安打や四死球で走者が出ても、得点しなければ無得点の試合になる。試合のない日は連続を切らず、ダブルヘッダーはそれぞれ別の試合として数える。無得点の引き分けと完封負けは、勝敗の扱いが異なる。

答え

無得点に終わった最多連続試合数5試合連続

答えは5試合連続。大映スターズが1953年10月4日の西鉄戦第2試合から、10月8日の毎日戦第1試合まで、0対3、0対3、0対11、0対1、0対11と無得点で終えた。全5試合に敗れ、連続完封負けのプロ野球記録として報じられている[B1][B2][B3]。

年
1953年
チーム
大映スターズ
カテゴリ
チーム・試合

詳細

4日間に5試合が詰まった記録

記録期間の10月4日~8日には、5日は試合がなかった。4日は西鉄との第2試合、6日は阪急戦、7日は阪急とのダブルヘッダー2試合、8日は毎日との第1試合。試合を行ったのは4日間だが、無得点で終えた試合は5つだった[B2]。

全5試合と前後のスコアボード

記録の5試合と、得点のあった直前・直後の試合を合わせた全7試合を掲載する。Rは得点、Hは安打、Eは失策。xは後攻の攻撃が不要だった回、1xはサヨナラの1点を挙げて途中で終了した回。全イニングの数字は復元試合データに従う[B3]。

球団名123456789RHE
西鉄0002040006102
大映000100000160

球団名123456789RHE
西鉄000012000371
大映000000000020
球団名123456789RHE
大映000000000070
阪急20100000x380
球団名123456789RHE
大映000000000074
阪急60300002x11140
球団名12345678910RHE
大映0000000000060
阪急0000000001x170
球団名123456789RHE
毎日00330050011160
大映000000000081

球団名123456789RHE
毎日0000004004121
大映000000001171

59イニングと5試合は同じ範囲ではない

無得点の試合数では、得点のあった直前・直後の試合を含めない。一方、連続無得点イニングでは、その2試合の無得点の回も数える。復元スコアでは、10月4日の第1試合に大映が四回に1点を挙げ、その後の五回~九回の5回分が無得点だった[B3]。

区間無得点イニング
10月4日第1試合の五回~九回5
連続無得点の5試合46
10月8日第2試合の一回~八回8
合計59

5+46+8=59。開始回は掲載した復元スコアから追ったもの。九回途中のアウトは「1イニング」として足さない。59イニングという記録は日刊スポーツとBASEBALL KINGの報道とも一致するが、当時の原スコアカードによる再集計ではない[B1][B3][B4]。

スタルヒンが十回途中まで守った0対1

詳しく取り上げるのは、4試合目の10月7日第2試合。連続記録の中で唯一の延長戦で、敗れた側の先発が相手を九回まで無得点に抑えた投手戦だった。大映のスタルヒンと阪急の天保義夫は、九回終了時点まで両軍に得点を許さなかった[B3]。

大映は32打数6安打、3四死球、2三振。滝田政治が4打数3安打と一人でチームの半分の安打を放ち、田川豊には三塁打、二宮政昭には二塁打もあった。しかし、長打や複数の出塁があっても得点につながらなかった。具体的な打席順、残塁数、走者がどのプレーでアウトになったかは確認できていない[B3]。

十回裏に阪急が1点を挙げてサヨナラ勝ち。阪急では天保に代わる代打の新留国良が1打数1安打1打点を記録しており、スコアと打点の対応から、最後の1点を挙げた打者と分かる。スタルヒンの投球回は9回2/3で、決着は十回裏二死からだった。安打方向や走者配置までは補わない[B3]。

投手戦の当日成績

球団名選手名投球回被安打奪三振四死球失点勝敗
大映スタルヒン9 2/37311敗
阪急天保義夫106230勝

双方が最後まで投げたため、失点はチームスコアと一致。投球回の2/3はアウト2つ。個別自責点は復元表が空欄のため、失点1を自責点1と読み替えない。球数、打者数、個別防御率も補わない[B3]。

両軍のオーダーと当日の打撃成績

当日の先発を打順で並べ、途中出場選手は同じ打順の下に置いた。成績は試合合計。原表末尾にある打率・本塁打は当日までの成績なので、当日の打撃欄には混ぜない。四死球は四球と死球の合計[B3]。

◇大映スターズ

打順位置選手名打数安打打点三振四死球盗塁失策
1(二)島田雄三4101000
2(三)坂本文次郎4000000
3(中)滝田政治4300000
4(一)伊賀上潤伍3000100
5(右)田川豊4100000
6(左)二宮政昭3100100
7(遊)山田潔3000100
8(投)V.スタルヒン4001000
9(捕)上市明3000000

◇阪急ブレーブス

打順位置選手名打数安打打点三振四死球盗塁失策
1(遊)L.レインズ3100100
2(一)川合幸三4000000
3(二)中谷演男4200000
4(右)戸倉勝城4000010
5(三)J.ブリットン4000000
6(中)古川清蔵4200010
7(左)藤井道夫3000000
8(捕)伊勢川真澄4100000
9(投)天保義夫3003000
9(代打)新留国良1110000

止めたのは最終戦の二宮政昭

10月8日の第2試合は大映のシーズン最終戦だった。毎日は七回に三宅宅三の適時打、本堂保弥の2点本塁打などで4点を挙げた。大映は八回まで0点のまま、九回に二宮政昭の適時打でようやく1点を返した。復元データの解説は、二宮の安打をポテンヒットと記している[B3]。

二宮はこの試合4打数3安打1打点で、二塁打も1本あった。大映の全7安打のうち3本を放ち、唯一の打点を記録。毎日の荒巻淳は9回7安打1失点で完投勝利、小川善治は9回12安打4失点で完投負けだった。無得点の連続は止まったが、勝利で終えることはできなかった[B3]。

リーグ最良の防御率で3位に入った球団

1953年のパ・リーグは7球団。大映は63勝53敗4分け、勝率.543の3位で、最下位に沈んだ球団の記録ではない。球団防御率2.67、392失点はいずれもリーグ最良だった。一方、打率.237は6位、405得点は5位、本塁打30本と盗塁61個は最少。投手力と得点力の間に差が見える[A1]。

順位球団名勝利敗北引分試合勝率ゲーム差打率得点安打本塁打盗塁防御率失点奪三振完封勝
1南海ホークス71481120.597--.2655411096612283.0243342812
2阪急ブレーブス67521120.5634.0.2584881074441842.6840351313
3大映スターズ63534120.5436.5.23740595230612.6739238414
4西鉄ライオンズ57612120.48313.5.25348710431141223.0547753313
5毎日オリオンズ56622120.47514.5.2524551015561143.1345954710
6東急フライヤーズ50673120.42720.0.220360878501123.2648047719
7近鉄パールス48693120.41022.0.2463691018311172.9346138811

30安打しても点にならなかった

連続試合日付打数安打打点三振四死球
110月4日第2試合282033
210月6日317031
310月7日第1試合327041
410月7日第2試合326023
510月8日第1試合328033

合計155打数30安打0打点、15三振11四死球。試合合計打率は30÷155=.193548…、小数第4位を四捨五入して.194。5試合の平均安打数は6本、7安打以上の試合も3つあった[B3]。

無安打で封じられた試合はない。打率.194という安打の少なさに加え、出た安打や四死球が得点として実らなかったことが、スコアから読み取れる。三振は5試合で15個にとどまり、三振の多さだけで説明できる連続記録でもない。ただし、得点圏打率や併殺の各試合の内訳を確認できないため、「すべて併殺が原因」「得点圏で極端に弱かった」とまでは断定しない[B3]。

シーズンの主力を個人成績から見る

選手名試合打率安打本塁打打点盗塁
島田雄三120.2621256304
坂本文次郎120.28013413712
滝田政治119.2781257487
田川豊115.244963432
山田潔106.192661246
菅原道裕82.287925468
飯島滋弥60.244380203
二宮政昭19.2968030

1953年のシーズン合計。復元資料の打撃成績による。試合オーダーの成績とは集計範囲が異なる[B2]。

滝田政治の7本塁打がチーム最多。二年目の菅原道裕は82試合で打率.287、5本塁打46打点を記録したが、記録期間5試合の打撃表には出場がない。飯島滋弥は60試合、打率.244、本塁打0。球団回顧は飯島が故障がちだったと伝えるが、記録期間の各選手の欠場理由や、打順変更の監督の意図は確認できていない[B2][B3]。

選手名登板先発完投完封勝利敗北投球回被安打四球死球奪三振失点自責点防御率
林義一36302621711283 2/32604239097842.66
V.スタルヒン2623173119201 2/31754246167602.67
姫野好治30231541312200 1/31575728765462.06
高松利夫291972991531405015263523.06
小川善治21137168124 2/31143103951473.38
薮本和男179416276 1/3682102417171.99

林義一は17勝と26完投、姫野好治は13勝、防御率2.06、スタルヒンは11勝、防御率2.67。球団の76完投はリーグ最多だった。それでも記録期間に0対1で敗れた例があり、投手が相手を抑えるだけでは勝ちにつながらない場面が残った[A1][B2][B3]。

年間平均でも援護が薄かった

参考として、同年のパ・リーグ7球団の合計得点は3105、球団試合数の合計は840。1球団1試合あたりは3105÷840=約3.70点。大映は405÷120=3.375点、表示は3.38点で、リーグ平均より約0.32点少ない。投手の打撃と引き分けを含むチーム総得点の比較。連続無得点試合数との数値比較ではない[A1]。

投手力の強さが年間の勝ち越しを支え、打線の得点力の弱さが終盤に露出した、という説明は成績と整合する。ただし、故障、疲労、球場の状態、選手の心理のどれが最後の5試合を決定づけたかは切り分けられない。季節全体の成績から、特定の試合の原因まで断定しない[A1][B2][B3]。

球団とリーグが姿を変える時代

球団回顧では、大映は球宴時に南海と同率首位で、後半も首位に立つ時期があったとされる。終盤の打線の不振で順位を落とし、最後は阪急に抜かれて3位。日程表では10月3日に西鉄とのダブルヘッダーに連勝した直後、4日から最終戦まで7連敗となった[B2]。

NPBのリーグ略史によれば、1953年1月には勝率.350を割った球団を翌年休場させる方針が決まり、12月には低勝率球団への制裁金制度も決まった。大映のこの年の勝率は.543で、その低勝率の条件には該当しない。創設間もないリーグが球団数や運営を調整していた時代の記録である[A1][A2]。

大映は1957年に高橋と合併して大映ユニオンズとなり、その年の終わりに毎日とも合併。1958年から大毎オリオンズとして戦った。今回、無得点の連続を終わらせた試合の相手だった毎日は、後に同じ球団の系譜へつながる相手でもあった[A2][A3]。

確認範囲と資料の相違

確認日2026年10月11日。対象は日本の一軍レギュラーシーズンで、試合終了までチーム得点が0の試合の連続。0対0の引き分けを定義上除外せず、延長と成立したコールドも対象とする。本例は全5試合が敗戦で、連続完封負け記録とも一致する。二軍、オープン戦、ポストシーズン、海外リーグは含めない。通算イニングと連続試合数は別集計。全7試合の掲載はこの記録の前後を含む範囲であり、歴代全零封試合の一覧ではない[B1][B3]。

歴代5試合という記録は日刊スポーツ等の記録記事を用いた。2026年の公開記事とNPB記録回顧も確認し、更新を確認できなかったが、全年度・全球団・全試合の得点を独自に再集計したものではない。0対0の引き分けを含む別の6試合以上の連続についても、確認した資料では見つからなかった。最新年までの全件再集計を行った認定とは区別する[A4][B1][B4]。

順位とチームの年間投打成績はNPB公式を優先。復元資料は大映の球団防御率を2.68とするが、公式年度別表は2.67のため、順位表と本文は公式値を採用した。失点392、投球回1096回1/3、その他の主要な総数は一致。資料差の原因は未確認[A1][B2]。

スコアボード、個人の当日成績、途中出場と守備変更、最終戦の二宮の適時打は二次資料の復元値。当時の公式スコアカードや新聞原紙との全項目照合はできていない。59イニングの内訳は掲載スコアから算出し、無得点の開始回を五回とした。個別自責点の空欄、球数、打席順、安打方向、残塁数、走者配置、故障の詳しい状況は補わない[B2][B3]。

何がすごいのか

  • 5試合のうち1試合は延長10回。試合を丸ごと無得点で終えた攻撃イニングは計46回だった[B3]。
  • 5試合で30安打・11四死球があり、無安打が続いた記録ではない[B3]。
  • 同じ期間には59イニング連続無得点も記録。次の試合の九回に1点を挙げ、両方の連続記録が止まった[B1][B3][B4]。

出典