最初で最後の打席で初球本塁打を放った選手

一軍初打席の初球を本塁打にした選手が、その後一度も一軍の試合に出場しなかった。唯一の打席で残した成績と、退団後の歩みをたどる。

一般的には?

初打席本塁打は、NPB一軍公式戦で初めて立った打席での本塁打。その打席の初球を打てば「初打席初球本塁打」となる。今回の選手は、以後一軍で打席に立たなかっただけでなく、出場も一試合限りだった。大学・社会人での打席は通算記録に含めない。

答え

初打席初球本塁打が唯一の打席になった選手塩瀬盛道

答えは塩瀬盛道(しおせ・もりみち)。東急フライヤーズの投手として、1950年5月11日の大映戦に途中出場し、初打席の初球を右翼席へ2点本塁打にした。一軍公式戦への出場はこの1試合だけ。通算1打席1本塁打のまま、同年限りで退団した[1][2][7]。

年
1950年
選手
塩瀬盛道
チーム
東急フライヤーズ
カテゴリ
選手・キャリア

詳細

最初で最後の打席

通算1試合・1打席・1打数・1安打・1本塁打・2打点。唯一の安打が本塁打だったため、打率は1.000、長打率は4.000。初出場がそのまま最終出場となり、年度成績と通算成績が一致する[1]。

一年の成績と通算成績が一致する
区分試合打席打数得点安打本塁打塁打打点
1950年11111142
通算11111142

二塁打・三塁打・盗塁・盗塁刺・犠打・四球・死球・三振・併殺打はいずれも0。安打1本の内訳は本塁打1本。1950年以外に一軍出場がないため、年間と通算の各数値は同じである[1]。

打率長打率計算
1.000(10割)4.000(40割)安打1÷打数1/塁打4÷打数1

長打率は本塁打を打つ確率ではなく、1打数当たりの塁打数。4塁打÷1打数で4.000となる。打率1.000も1安打÷1打数の結果で、規定打席に達した打者との成績比較には使えない[1][9]。

◇NPBに掲載のない出塁率・OPSは参考計算

NPB公式の塩瀬の成績表では、出塁率と犠飛の欄が空欄になっている。ただし唯一の打席は本塁打なので、この打席に犠飛はない。現在の算式なら出塁率は(1安打+0四球+0死球)÷(1打数+0四球+0死球+0犠飛)=1.000、OPSは出塁率1.000+長打率4.000=5.000となる[1][9]。

出塁率1.000とOPS5.000は本記事による参考計算であり、NPBの公式掲載値ではない。打者としての1打席は初球で決着したが、投手としての投球数が1球だったわけではない。

投手として残した成績
登板勝敗打者投球回被安打被本塁打与四球奪三振
100111 1/32051
与死球暴投ボーク失点自責点防御率(NPB掲載)
001229.00

投球回1回1/3はアウト4個。打者11人に対し2安打・5四球を許し、1奪三振・1ボークを記録した。初打席の本塁打とは対照的に、登板では走者を多く出した[1]。

防御率はNPB公式ページに9.00と掲載されているが、同じページの自責点2・投球回1回1/3から算出すると、2×9÷(1+1/3)=13.50になる。日刊スポーツも13.50と記載する。表はNPB掲載値9.00をそのまま示し、算術上の不一致を注記した。掲載値が異なる理由は確認できていない[1][4][9]。

◇大差の試合で、投手同士が立場を入れ替えた

5回裏2死、東急が0対18と大量リードを許した場面で初登板。相手投手・姫野好治を三振に取ると、次の回にはその姫野から本塁打を打った。投げる側でも打つ側でも、最初の相手は同じ投手だった[2][3]。

後楽園での大映9回戦

1950年5月11日、大映対東急9回戦(後楽園球場)。先攻の東急は7対20で敗れた。両軍合わせて27得点、34安打という試合で、塩瀬は東急の最初の2点を本塁打で挙げた[2][3][11]。

チーム123456789RHE
東急0000024017142
大映70056200×20200

R=得点、H=安打、E=失策。東急の最初の得点は6回表、塩瀬の2ランによるもの[2][3]。

◇5回裏の初登板

東急は桑名重治、樽井清一、蔦文也と継投したが、5回裏2死までに18失点。4番手の塩瀬は、最初の打者で相手投手の姫野好治を三振に取り、その回を終わらせた。直前まで投げていた蔦は、のちに池田高を率いた監督でもある[2][3]。

◇6回表の唯一の打席

6回表2死一塁、8番投手の打順で塩瀬が初打席を迎えた。相手は、直前に自分が三振に取った姫野。その初球を右打者の塩瀬が右翼席へ運び、2点本塁打にした。プロ初安打・初本塁打・初打点・初得点が同じ一打で記録された[1][2][4]。

回打順打者投手打撃結果要した球数
6回表8塩瀬盛道姫野好治右本②1

②は打点。打球の位置はBASEBALL KINGが「右翼席上段」、日刊スポーツが「右翼席最前列」と記しており一致しないため、本文では「右翼席」にとどめた。球種・球速は確認できない[2][4]。

◇6回裏の失点から7回裏の降板へ

6回裏は四球やボークも絡んで2失点。7回裏は四球、内野安打、四球で無死満塁とし、常見茂に交代した。5回裏1アウト、6回裏3アウト、7回裏0アウトで、投球回は1回1/3だった[1][2][3]。

7回裏は、無死満塁から東急が三重殺で切り抜けて大映は無得点。塩瀬が残した走者は生還しなかった。同じ試合で、初打席初球本塁打と無死満塁からの三重殺が起きている[3][4]。

東急の先発オーダー
位置選手名打順
(遊)皆川定之1
(二)浜田義雄2
(中)大下弘3
(左)常見昇4
(一)原田清5
(右)片岡照七6
(捕)稲川豪一7
(投)桑名重治8
(三)斎藤宏9

塩瀬は8番投手の打順に途中から入った。投手の継投は桑名→樽井→蔦→塩瀬→常見茂。4番左翼手の常見昇と5番手投手の常見茂は別人である[3]。

大映の先発オーダー
位置選手名打順
(遊)山田潔1
(中)滝田政治2
(三)伊賀上良平3
(右)飯島滋弥4
(左)加藤正二5
(二)酒沢政夫6
(一)渡辺一衛7
(捕)板倉正男8
(投)姫野好治9

両表は試合開始時のオーダー。打席順を全員分復元した表ではなく、塩瀬の唯一の打席だけを別表にした。勝利投手は姫野、敗戦投手は桑名で、塩瀬に勝敗は付いていない[3]。

プロは一年でも、野球人生は続いた

同年11月、19歳で東急を退団した塩瀬は、熊谷組で社会人野球を続け、都市対抗にも出場した。母校の大学監督、会社員、関連会社の社長という歩みも伝えられている。「一度の本塁打だけで人生が終わった選手」と考えると、その後の長い経歴を見落としてしまう[2][5][6]。

◇学生のままプロへ

塩瀬は1931年5月生まれの右投右打。NPB登録では173センチ・71キロ。竜ケ崎中から國學院大に進み、在学中の1950年に東急へ入団した。東急は現在の日本ハムにつながる球団である[1][7]。

なぜ次の一軍出場がなかったのか

塩瀬は打者ではなく投手として入団し、唯一の登板では1回1/3を投げて5四球・2失点だった。日刊スポーツの記録記事は、この投球内容と一軍への再登板がなかったことを関連付けて紹介している[1][4]。

次の出場機会がなかった具体的な理由を示す首脳陣の証言や、退団の決定過程は確認できない。1950年11月に19歳で東急を退団し、その後一軍出場がなかったことまでが確認できる事実である[1][2][7]。

社会人野球と大学監督

退団後は熊谷組で社会人野球を続け、都市対抗には3年連続出場したと紹介される。大学へ戻って卒業し、その後、日本専売公社で働いた。野球部の休部後は労務・総務の仕事も担当したという[2][5][6]。

1960年には母校・國學院大の監督を務めた。BASEBALL KINGによると、大沢清のアマチュア資格が認められるまでの間の指導だった。大沢清は後の日本ハム監督・大沢啓二の兄である[2]。

時期所属や立場主な出来事
プロ入り前竜ケ崎中→國學院大大学在籍中に東急へ入団
1950年東急フライヤーズ5月11日に唯一の出場/11月に退団
東急退団後熊谷組社会人でプレーし、大学も卒業
その後日本専売公社選手生活から労務・総務の仕事へ
1960年國學院大監督母校で指導
1985年以降JT、関連会社部長代理を経てニッタム社長と紹介される
2001年—死去

年表には公表資料で確認できる時期を掲載した。熊谷組・専売公社での年度別成績や異動年月は不明で、企業内の役職は書籍紹介と人物紹介の二次資料に基づく[5][6][7]。

◇一打席の男が、職場で見せた顔

『プロ野球ヒーロー伝説』(1992年)を紹介した記事には、専売公社の野球部休部後、塩瀬が各地のたばこ工場を訪ね、現場を学んで労務担当になったという話がある。若い社員にも「さん」を付けて呼び、目立たない人に気を配ったと伝える[6]。

同じ記事は、大学監督時代に「一打数一安打」をやじられた経験と、それを踏まえて選手を励ました逸話も紹介する。後にJTの部長代理や関連会社社長を務めたとされるが、これらの人物像は原書未確認の再話として扱う[5][6]。

◇本塁打の賞品と大下弘

人物紹介には、本塁打の賞品を大下弘の勧めで仲間に分けたことや、大下の縁で女優・高峰三枝子との食事が実現したという逸話もある。ただし原書の該当箇所までは確認できず、二次紹介として残した[5]。

シュルジーとの共通点と違い

NPB通算1打席1本塁打の投手には、オリックスのドン・シュルジーもいる。1991年5月29日の近鉄戦、来日後初打席の初球を本塁打にし、以後NPBで打席に立たなかった。通算打率1.000、長打率4.000は塩瀬と同じである[2][8][10]。

選手名NPB出場試合登板打席打数安打本塁打打点
塩瀬盛道1111112
D.シュルジー635711111

ただしシュルジーは1990~1992年に57試合登板し、NPB打撃成績の「試合」欄では通算63試合。両者の決定的な違いは、塩瀬の一軍出場自体が1試合で終わった点にある。シュルジーには来日前の米国プロ経験があり、「NPB初打席」と「プロとしての初打席」も同一ではない[1][8][10]。

63年後に注目された初球の一打

2013年5月12日、ロッテの新人・加藤翔平が楽天戦で初打席初球本塁打を記録。翌日の日刊スポーツは、新人では塩瀬以来63年ぶり2人目と報じた。加藤はこの後も2安打を放ち、デビュー戦で猛打賞を記録。塩瀬と違い、初打席が最後の打席にはならなかった[7]。

記録の範囲と資料の扱い

対象はNPB一軍公式戦の通算成績。オープン戦、二軍、大学・社会人、海外での打席は含めない。「最後の打席」は引退後に振り返った表現であり、生涯最後の野球の打席という意味ではない。

通算成績はNPB公式を優先し、初球の経緯は報道資料で照合した。1950年の詳細スコアを載せた記録専門サイトは今回直接再取得できず、オーダー・投手交代などは原稿が引用する二次集計に依拠する。防御率9.00と計算値13.50、打球位置の資料差は本文に記した。退団後の逸話には原書未確認の再話を含む。資料確認日:2026年10月25日。

何がすごいのか

  • 最初の打席の初球が本塁打。その後に打席を加えず、初出場の1試合が全キャリアになった[1][2]。
  • 通算の安打数と本塁打数が同じ1。打率10割と長打率40割を、計算式どおりに残した[1]。
  • 投手として最初に三振に取った姫野が、打者として最初に本塁打を打った相手でもあった。唯一の試合の中に、投打両方の対戦が詰まっている[2][3]。

出典