指名打者として最初の本塁打を放った選手は誰か

投手の代わりに打席へ立つ指名打者。その制度が始まり、指名打者第1号を放った選手は誰なのか。

一般的には?

指名打者(DH)は、投手に代わって打順に入り、守備には就かずに打撃を担う選手。打力を生かすための制度だけに、その始まりを飾る一打にも目が向く。ただし「最初の本塁打」は、同日に別の球場でも出る可能性がある。日付やイニングだけでなく、どちらが時間的に先だったかまで確かめる必要がある[A1]。

答え

NPBで指名打者として最初に本塁打を放った選手東田正義

NPB一軍公式戦で指名打者として最初に本塁打を放ったのは、日本ハムファイターズの東田正義。1975年4月5日の太平洋クラブ戦で、9回表に東尾修から同点ソロを放った[B1][B2]。

年
1975年
選手
東田正義
チーム
日本ハムファイターズ
カテゴリ
打撃

詳細

◇負ける寸前に飛び出した記念の一打

1975年4月5日 太平洋クラブライオンズ対日本ハムファイターズ 前期1回戦 平和台球場。東田は5番・指名打者で先発した。日本ハムが1対2で迎えた9回表、東尾から放ったソロで2対2の同点に戻した。アサ芸プラスの回顧記事は、打球が左翼席へ入ったと伝えている[B2][B3]。

チーム1234567891011RHE
日本ハム10000000101372
太平洋クラブ00001010002x4112

スコアボードは民間記録集「日本プロ野球記録」による。xはサヨナラによる試合終了。日本ハムは延長11回、3対4で敗れた[B2]。

選手名打順/位置打数安打二塁打本塁打打点
東田正義5番/指名打者53111

当日の打撃成績は試合成績表の値。打席ごとの全結果や、本塁打の球種・球数までは補っていない[B2]。

◇延長でも勝ち越しに絡んだ

回顧記事によれば、東田は11回表にも二塁打で出塁し、東尾の暴投で勝ち越しの生還。しかし11回裏、太平洋は白仁天の内野安打を足場に、ビュフォードの適時打で同点。続く基満男のサヨナラ二塁打で試合を終わらせた。東田の第1号は、勝利には結び付かなかったものの、敗戦目前の試合を延長へ持ち込んだ一打だった[B2][B3]。

あわせて読むチーム・試合延長戦で両チームは何点まで取り合ったのか同点で迎えた延長戦。次の1点が勝敗を左右する緊迫の試合が、突然の猛攻で別の姿に。

指名打者制度導入の経緯

◇人気回復と打撃の魅力を求めて

大リーグのアメリカン・リーグは1973年にDH制を導入していた。日刊スポーツの歴史コラムは、人気低迷に悩んでいたパ・リーグも、その制度を取り入れたと説明する。投手の打順に打者を置き、打撃の見せ場を増やすという考えが背景にあった[A1][B4]。

◇代打の名手も議論を後押しした

Sportivaの高井保弘への取材記事には、導入議論の一つのきっかけが残る。高井は1974年のオールスター第1戦で代打逆転サヨナラ本塁打を放った。その活躍を受け、米国人記者ネイト・O・マイヤーズが、高井のような打者を代打だけで使うのは惜しいとして、DH制の検討を促す記事を書いたという。これだけで導入が決まったという話ではなく、気運を高めた一因として紹介されている[B5]。

◇最初は二年間の試行だった

NPBのパ・リーグ略史によると、1974年11月18日のオーナー懇談会で、翌年から2年間を試行期間として指名打者制を採用すると決定した。制度導入が決まった日と、第1号本塁打が生まれた日は別である[A2]。

時期出来事
1973アメリカン・リーグがDH制を採用[A1]
1974年7月21日高井保弘が球宴で代打逆転サヨナラ本塁打[B5]
1974年11月18日パ・リーグが翌年からの二年間の試行を決定[A2]
1975年4月5日パ・リーグ開幕。東田正義がDHとして公式戦初本塁打[B1]

◇同じ日に長池も打っていた

東田だけが開幕日にDHとして本塁打を打ったわけではない。阪急の長池徳二も、近鉄戦で一発を放っている。日刊スポーツは、両者は同日だが、時間差で東田が先だったと明記する。長池の一発は8回、東田は9回であり、イニングの数字だけで比べると順番を取り違える[B1][B3]。

球場/対戦試合開始時刻指名打者の本塁打
平和台/太平洋クラブ対日本ハム13時東田正義・9回表
西宮/阪急対近鉄15時長池徳二・8回裏

開始時刻と長池の8回の一発は回顧記事による。開始時刻だけを根拠に先後を推定せず、東田が先という日刊スポーツの記述と合わせて判断した。本塁打を放った正確な時計時刻は確認できていない[B1][B3]。

記録を残した打者

◇西鉄を支えたトン・タケの一人

東田正義は1945年8月1日生まれの右投右打。御所工業、三重交通を経て、1967年ドラフト2位で西鉄に入り、1968年から一軍でプレーした。記念の本塁打を放った日は29歳。西鉄時代は竹之内雅史と「トン・タケ」コンビと呼ばれ、打線を支えた。西武の公式球団史にも、その呼び名が残っている[A3][A4]。

◇記念の年と通算の打撃成績

区分試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打
1975年8429425935651218
通算9533360303033576311312123
区分打点盗塁四球死球三振打率長打率出塁率
1975年29328436.251.398.333
通算3512828124474.252.419—

NPB個人年度別成績による。1975年の数字は守備について出場した試合も含むシーズン全体で、DH限定成績ではない。出塁率はNPB掲載値を使用。

◇本塁打の自己最多は二十三本

西鉄時代の1971年には、125試合で打率.284、23本塁打、58打点。23本は現役生活で最多のシーズン本塁打数だった。一方、移籍前年の1974年は65試合で打率.185、8本塁打。新天地で迎えた1975年は、本塁打数こそ同じ8本だったが、打率は.251へ戻した。その最初の一発が、制度の歴史にも残った[A3]。

関連記事記録の歴史日本プロ野球第1号本塁打を打った選手日本プロ野球の公式戦で、最初に本塁を一周したのは誰だったのか。現代のホームランとは少し違う、意外な第1号の記録をたどる。

◇古巣の仲間と向き合った開幕戦

民間のトレード一覧では、東田は前年オフに白仁天との交換で太平洋クラブから日本ハムへ移ったとされる。開幕戦の相手は古巣で、相手側のDHはかつての相棒・竹之内。マウンドには西鉄時代を共にした東尾がいた。新制度の初本塁打には、古いチームメート同士の対戦という背景も重なっていた[B2][B6][A4]。

交換相手の白も、この試合で本塁打を含む3安打。11回裏には逆転サヨナラにつながる走者となった。ただし白は中堅手で出場しており、この一発はDHの初本塁打には当たらない。白はシーズンを打率.319で終え、首位打者を獲得した[B2][A5]。

東田の日本ハム在籍はこの一年。NPB年度別成績では、翌1976年から阪神に所属し、1977年まで出場記録が残る。阪神初年度にも12本塁打を放ち、通算123本塁打を積み重ねた[A3]。

資料の確認

◇記録の範囲と資料の食い違い

確認日:2026-10-07。ここでいう第1号は、NPB一軍のレギュラーシーズン公式戦で、指名打者として打席に立って放った本塁打。オープン戦、二軍、オールスター、日本シリーズの記録は含めない。「初めてDHを務めた選手」や「DHで先発した選手が守備へ移った後に打った本塁打」とも区別する。

初本塁打の選手・日付・回と長池との時間的な先後は日刊スポーツ、年度別・通算成績と導入決定はNPB資料で確認した。当日のスコア・打撃成績は民間記録集、打球方向・開始時刻・11回の東田の二塁打は後年の回顧記事による。原スコアカードや当日の新聞紙面を直接確認したものではない[A2][A3][B1][B2][B3]。

アサ芸プラスは太平洋クラブの竹之内を「5番DH」と記す一方、試合成績表では江藤慎一が5番、竹之内が6番。東田の5番DHという記述は両資料で一致する。本文では竹之内の打順を断定せず、資料間の違いとして残す[B2][B3]。

初記録の先後を確認する記事で、平均値との比較は行わない。

何がすごいのか

  • 制度が始まった開幕戦で、敗戦目前のチームを救う同点弾だった。
  • 同日の別球場にも本塁打があり、初記録を決めたのは日付や回ではなく時間的な先後だった。
  • 打った相手は古巣の投手。
  • 長く一緒に戦った選手たちの対戦が、新制度の最初の一打になった。

出典