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第1号が生まれた甲子園の試合
日本のプロ野球で初めて公式リーグ戦が開かれたのは1936年4月29日。甲子園で始まった第1回日本職業野球リーグ戦は、米国遠征中の東京巨人軍を除く6球団によって争われた。第1号本塁打は開幕から12試合目、5月4日のタイガース対セネタース戦で誕生した[1][3]。
この試合で藤井は2番打者として出場し、セネタースの投手・野口明からランニング本塁打を放った。藤井は当時19歳の左打者。打球が外野フェンスを越えなくても、打者走者が本塁まで生還すれば記録上は本塁打になる[1][4][5]。
試合結果は東京セネタース5対3タイガース。つまり、プロ野球最初の本塁打を打ったチームは、その試合には敗れていた。日付・球場・対戦相手はNPBおよび阪神球団の公式資料で、得点は当時の公式戦日程を整理した資料で照合できる[1][2][6]。
◇なぜランニング本塁打だったのか
当時の甲子園は現在より外野の深い部分が広かった。NPB公式記録員の調査では、当時の本塁からセンターまでは128m、左中間と右中間は137m、両翼は94.8m。第1回リーグ戦の甲子園15試合では藤井のランニング本塁打だけが記録され、柵越え本塁打は1本もなかった[3]。
「大きな球場だったので長打が三塁打やランニング本塁打になりやすかった可能性」は考えられる。ただし、この一打の守備位置や捕球経過を示す同時代の一次資料は今回照合できず、藤井の本塁打が成立した直接の原因まで断定はしない。
初めて打球がフェンスを越えた本塁打は別の記録だ。NPB公式によれば、同年5月22日の阪急対大東京戦(宝塚球場)で、阪急の4番・山下実が左翼席へ運んだ。これは通算22試合目、通算1748打席目に生まれた初の柵越え本塁打である[1]。
藤井勇はどんな選手だったのか
藤井勇は1916年10月20日生まれ、鳥取一中出身の左投左打の外野手。プロリーグ発足時からタイガースの主力としてプレーした。球団公式の在籍記録では、1936~38年と1942年の計4年、タイガースで280試合・284安打・打率.276を記録している[2][7][8]。
第1号を放った1936年春夏の成績は、15試合で打率.365(63打数23安打)、本塁打1、打点5。同年秋も30試合で打率.320、40安打、30得点と好成績を残した。最初の本塁打が偶然の一発だっただけでなく、打撃の中心として活躍した選手である[7]。
◇戦後には長距離打者としても活躍
戦後はパシフィック、太陽・大陽ロビンスを経て、新球団として発足した大洋ホエールズで主軸となった。1950年は140試合に出場し、打率.327、177安打、34本塁打、122打点。プロ野球の記念すべき第1号打者は、後年にはシーズン30本塁打を超える長距離打者にもなっていた[7][9]。
NPB公式の通算成績は1,487試合、1,482安打、146本塁打、764打点、打率.275。1958年まで公式戦に出場し、1955年には大洋で選手兼任監督も務めた。第1号の一打を19歳で放ち、現役最後の本塁打は41歳だったという[5][7][9]。
| 年度 | 球団 | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1936春夏 | タイガース | 15 | 23 | 1 | 5 | .365 |
| 1936秋 | タイガース | 30 | 40 | 0 | 14 | .320 |
| 1937春 | タイガース | 56 | 56 | 0 | 31 | .256 |
| 1937秋 | タイガース | 49 | 56 | 1 | 36 | .299 |
| 1938春 | タイガース | 32 | 25 | 0 | 11 | .291 |
| 1938秋 | タイガース | 29 | 16 | 0 | 6 | .200 |
| 1942 | 阪神 | 69 | 68 | 2 | 25 | .253 |
| 1946 | パシフィック | 78 | 89 | 4 | 35 | .286 |
| 1947 | 太陽 | 119 | 122 | 5 | 43 | .257 |
| 1948 | 大陽 | 128 | 107 | 4 | 54 | .222 |
| 1949 | 大陽 | 97 | 111 | 16 | 77 | .283 |
| 1950 | 大洋 | 140 | 177 | 34 | 122 | .327 |
| 1951 | 大洋 | 98 | 100 | 15 | 59 | .255 |
| 1952 | 大洋 | 107 | 126 | 14 | 69 | .286 |
| 1953 | 洋松 | 112 | 123 | 15 | 57 | .299 |
| 1954 | 洋松 | 112 | 105 | 15 | 55 | .264 |
| 1955 | 大洋 | 62 | 36 | 4 | 18 | .283 |
| 1956 | 大洋 | 101 | 79 | 13 | 34 | .264 |
| 1957 | 大洋 | 41 | 20 | 2 | 12 | .274 |
| 1958 | 大洋 | 12 | 3 | 1 | 1 | .158 |
| 通算 | — | 1,487 | 1,482 | 146 | 764 | .275 |
NPB公式「藤井勇 個人年度別成績」の一軍全20期。1936~1938年は公式掲載どおり春夏・春・秋の区分を残した。通算打率は通算5,387打数・1,482安打による。球団名は当時の表記。資料確認日:2026年10月10日[7]。
第1号の相手投手だった野口明も、NPB公式に通算49勝40敗、防御率2.54を残し、後年は打者としてもプレーした投打二刀の選手だった。草創期の本塁打第1号は、のちに選手として長く活躍した2人の対戦から生まれている[10]。
実は藤井には本塁打第1号以外にも珍しい打撃記録がある。1951年8月5日の広島戦では、1試合で4本の二塁打を放ち、現在も最多タイ記録として歴代の試合記録に名前を残す。ランニング本塁打で始まったキャリアで、二塁打でも歴史的な数字を刻んだ[12]。
なお、この「日本プロ野球第1号」はNPBに継承される日本職業野球リーグの公式戦に限った通算記録だ。リーグ発足以前にも職業野球団の試合はあったが、そうした練習試合や対外試合の本塁打とは区別する。今回、公式戦第1号より前の「非公式の第1号」を選手名・試合日まで確実に裏付けられる資料は確認できなかった[1][3]。
対戦当日の全打順、打者ごとの打席結果、イニング別スコア、安打・失策数を示す当時の完全なスコアカードは確認できなかったため、オーダー表・イニング別スコアボードは作成していない。第1号本塁打の発生日・球場・相手・種類はNPB公式、最終スコアと2番打者の情報は専門媒体・記録サイトで補った。資料確認日:2026年10月10日。