最も少ない本塁打数で獲得した本塁打王

本塁打王といえば、打線を支える強打者の勲章。では、最も少ない本数で決まったタイトルは、どれほどの数字だったのだろう。

一般的には?

本塁打王は、そのシーズンのリーグで最も多く本塁打を打った選手に与えられるタイトル。一定の本数を超えることが条件ではなく、最多が同数なら複数の選手が並ぶ。試合数や打撃環境によって必要な本数は変わるため、数字を読むときは、その年の成績と比べたい。

同シーズンのリーグ平均
約0.277本/100打数

答え

本塁打王の本塁打数2本

日本プロ野球史上の最少は2本。1936年秋、藤村富美男、山下実、古谷倉之助の3人が最多本塁打に並んだ。1950年の2リーグ制移行後に限ると最少は22本で、1957年の青田昇と佐藤孝夫、1960年の藤本勝巳が記録している。

年
1936年
選手
藤村富美男/山下実/古谷倉之助(1936年秋)
チーム
大阪タイガース/阪急軍/名古屋金鯱軍(1936年秋)
カテゴリ
打撃

普通と比べると

同シーズンのリーグ平均
約0.277本/100打数
このシーズンの本塁打王3人合計
約2.256本/100打数

本塁打王3人の合計で計算した本塁打率は、同シーズンのリーグ平均の約8.16倍。

1936年秋だけを集計。リーグ18本÷6,509打数×100、3人合計6本÷266打数×100。投手を含む全打者の打数で加重した平均。個人の2本とリーグ総数18本は直接比較しない。[1][6]

詳細

◇創設期の短いシーズン

1936年秋は、日本プロ野球の創設年に行われた独立したシーズンだ。各チームの試合数は26~31試合で、大阪は31試合、阪急は30試合、名古屋金鯱は28試合だった。全7チームを合わせても本塁打は18本。そのうち2本ずつを打った3人が、最多本塁打として記録されている。「1936年の年間合計で2本」という意味ではない。[1]

◇1936年秋の打撃三部門

打率

順位選手名球団成績
1中根之名古屋.376
2古谷倉之助金鯱.343
3山下好一阪急.333

本塁打

順位選手名球団成績
1藤村富美男大阪2本
1山下実阪急2本
1古谷倉之助金鯱2本

打点

順位選手名球団成績
1古谷倉之助金鯱23点
2小川年安大阪21点
3山下実阪急20点

出典[1][7]。打率は公式ランキング。本塁打・打点は1位から3位までを抜粋し、同順位は全員掲載。

◇別リーグはどうだったのか

この時点は1リーグ制で、比較する別リーグは存在しない。古谷は本塁打と打点の二冠、打率も2位だった。藤村は打率.346だが規定未達のため、上表の打率順位には入らない。[1][6]

◇2リーグ制以降は22本

1950年以降の最少記録は、セ・リーグで2度生まれた。1957年は大洋の青田昇と国鉄の佐藤孝夫が22本で同時受賞。1960年は大阪の藤本勝巳が22本で単独の本塁打王となり、76打点で打点王も獲得した。両年ともセ・リーグ各球団は130試合を戦っており、創設期の短期シーズンとは条件が異なる。[2][4][8]

◇1957年のセ・リーグ

打率

順位選手名球団成績
1与那嶺要巨人.343
2田宮謙次郎大阪.308
3吉田義男大阪.297

本塁打

順位選手名球団成績
1青田昇大洋22本
1佐藤孝夫国鉄22本
3町田行彦国鉄21本
3宮本敏雄巨人21本

打点

順位選手名球団成績
1宮本敏雄巨人78点
2佐藤孝夫国鉄68点
3藤井弘広島62点

出典[2][7]。打率は公式ランキング。本塁打・打点は1位から3位までを抜粋し、同順位は全員掲載。

◇1957年のパ・リーグ

打率

順位選手名球団成績
1山内和弘毎日.331
2中西太西鉄.317
3毒島章一東映.307

本塁打

順位選手名球団成績
1野村克也南海30本
2山内和弘毎日29本
3中西太西鉄24本

打点

順位選手名球団成績
1中西太西鉄100点
2野村克也南海94点
3葛城隆雄毎日91点

出典[3][7]。打率は公式ランキング。本塁打・打点は1位から3位までを抜粋。

◇別リーグとの比較

同年のパ・リーグは野村克也が30本で本塁打王。セ・リーグの22本を8本上回った。セの本塁打争いは、22本の2人を21本の2人が追う接戦だった。パは各球団132試合で、セの130試合とは2試合の差だった。[2][3]また1960年は、パ・リーグの山内和弘が32本で本塁打王となり、セの22本を10本上回った。山内は103打点でもリーグ最多だった。[5]

◇1960年にも並んだ22本

藤本勝巳が単独で本塁打王になった1960年も、セ・リーグの最多は22本。2位の森徹と興津達雄は21本で、差はわずか1本だった。[4][7]

◇1960年のセ・リーグ

打率

順位選手名球団成績
1長嶋茂雄巨人.334
2近藤和彦大洋.316
3中利夫中日.312

本塁打

順位選手名球団成績
1藤本勝巳大阪22本
2森徹中日21本
2興津達雄広島21本

打点

順位選手名球団成績
1藤本勝巳大阪76点
2森徹中日72点
3王貞治巨人71点

出典[4][7]。打率は公式ランキング。本塁打・打点は1位から3位までを抜粋し、同順位は全員掲載。

◇1960年のパ・リーグ

打率

順位選手名球団成績
1榎本喜八大毎.344
2田宮謙次郎大毎.317
3山内和弘大毎.313

本塁打

順位選手名球団成績
1山内和弘大毎32本
2野村克也南海29本
3豊田泰光西鉄23本

打点

順位選手名球団成績
1山内和弘大毎103点
2野村克也南海88点
3豊田泰光西鉄87点

出典[5][7]。打率は公式ランキング。本塁打・打点は1位から3位までを抜粋。

◇本数が少なくなる要因

1936年秋については、まず試合数と打数の少なさが本塁打の総数を抑える条件だったと考えられる。1957年と1960年は、同年のパ・リーグよりセ・リーグの打率と1チーム1試合平均得点が低かった。ただし、リーグ平均の本塁打数だけでは、22本というタイトルの数字を説明できない。上位打者への本塁打の集中度や、突出した打者がいるかどうかも関係する。[1・2・3・4・5]

◇同年のリーグ平均で比べる

同年のリーグ平均
年リーグリーグ打率平均得点平均本塁打
1957年セ.2283.16点0.558本
1957年パ.2353.45点0.494本
1960年セ.2323.26点0.637本
1960年パ.2463.60点0.638本

平均得点・平均本塁打は1チーム1試合当たり。各年・各リーグの全公式戦を対象に、球団の得点/本塁打合計を球団の試合数合計で割った。リーグ打率は安打合計÷打数合計。表示は四捨五入。[2・3・4・5]

◇打撃環境とタイトル争い

1957年のセは、パより打率と平均得点が低い。一方、平均本塁打はセが0.558本、パが0.494本で、セの方が多かった。1960年の平均本塁打はセ0.637本、パ0.638本とほぼ同じだ。リーグ全体で本塁打が少ないことだけを、22本で決着した原因にはできない。

両年のセでは、最多に1本差の打者が2人ずついた。上位が20本台前半に並び、突出して多く打つ選手がいなかったことが、直接タイトルの本数を決めている。同年の成績からは、「得点の出方」と「本塁打が誰に集中したか」を分けて考える必要がある。

◇成績から考えられる要因

投手の力量、打者の顔ぶれ、球場や使用球も本塁打の出方に関係する。ただし、成績だけで球や球場の影響は特定できない。資料から確認できる背景は、創設期の短い日程と、2リーグ制以降の接近した上位成績である。

対象は日本プロ野球の公式戦。歴代記録は2025年シーズン終了時点、資料確認日は2026年10月5日。1936年秋を独立したシーズンとして扱う。球団名は当時の名称を基本とし、表中は大阪・金鯱などに略記。藤本の表記はNPB公式成績の「勝巳」、興津は1960年当時の「達雄」を用いた。

何がすごいのか

  • 創設期の短い秋季シーズンで生まれた2本と、130試合を戦ったうえでの22本。
  • 同じ本塁打王でも、数字に至る条件は違う。
  • 同年の上位成績とリーグ平均を並べることで、タイトルの本数だけでは見えない背景が分かる。

出典