詳細
◇創設期の短いシーズン
1936年秋は、日本プロ野球の創設年に行われた独立したシーズンだ。各チームの試合数は26~31試合で、大阪は31試合、阪急は30試合、名古屋金鯱は28試合だった。全7チームを合わせても本塁打は18本。そのうち2本ずつを打った3人が、最多本塁打として記録されている。「1936年の年間合計で2本」という意味ではない。[1]
◇1936年秋の打撃三部門
打率
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 中根之 | 名古屋 | .376 |
| 2 | 古谷倉之助 | 金鯱 | .343 |
| 3 | 山下好一 | 阪急 | .333 |
本塁打
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 藤村富美男 | 大阪 | 2本 |
| 1 | 山下実 | 阪急 | 2本 |
| 1 | 古谷倉之助 | 金鯱 | 2本 |
打点
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 古谷倉之助 | 金鯱 | 23点 |
| 2 | 小川年安 | 大阪 | 21点 |
| 3 | 山下実 | 阪急 | 20点 |
◇別リーグはどうだったのか
この時点は1リーグ制で、比較する別リーグは存在しない。古谷は本塁打と打点の二冠、打率も2位だった。藤村は打率.346だが規定未達のため、上表の打率順位には入らない。[1][6]
◇2リーグ制以降は22本
1950年以降の最少記録は、セ・リーグで2度生まれた。1957年は大洋の青田昇と国鉄の佐藤孝夫が22本で同時受賞。1960年は大阪の藤本勝巳が22本で単独の本塁打王となり、76打点で打点王も獲得した。両年ともセ・リーグ各球団は130試合を戦っており、創設期の短期シーズンとは条件が異なる。[2][4][8]
◇1957年のセ・リーグ
打率
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 与那嶺要 | 巨人 | .343 |
| 2 | 田宮謙次郎 | 大阪 | .308 |
| 3 | 吉田義男 | 大阪 | .297 |
本塁打
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 青田昇 | 大洋 | 22本 |
| 1 | 佐藤孝夫 | 国鉄 | 22本 |
| 3 | 町田行彦 | 国鉄 | 21本 |
| 3 | 宮本敏雄 | 巨人 | 21本 |
打点
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 宮本敏雄 | 巨人 | 78点 |
| 2 | 佐藤孝夫 | 国鉄 | 68点 |
| 3 | 藤井弘 | 広島 | 62点 |
◇1957年のパ・リーグ
打率
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山内和弘 | 毎日 | .331 |
| 2 | 中西太 | 西鉄 | .317 |
| 3 | 毒島章一 | 東映 | .307 |
本塁打
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 野村克也 | 南海 | 30本 |
| 2 | 山内和弘 | 毎日 | 29本 |
| 3 | 中西太 | 西鉄 | 24本 |
打点
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 中西太 | 西鉄 | 100点 |
| 2 | 野村克也 | 南海 | 94点 |
| 3 | 葛城隆雄 | 毎日 | 91点 |
◇別リーグとの比較
同年のパ・リーグは野村克也が30本で本塁打王。セ・リーグの22本を8本上回った。セの本塁打争いは、22本の2人を21本の2人が追う接戦だった。パは各球団132試合で、セの130試合とは2試合の差だった。[2][3]また1960年は、パ・リーグの山内和弘が32本で本塁打王となり、セの22本を10本上回った。山内は103打点でもリーグ最多だった。[5]
◇1960年にも並んだ22本
藤本勝巳が単独で本塁打王になった1960年も、セ・リーグの最多は22本。2位の森徹と興津達雄は21本で、差はわずか1本だった。[4][7]
◇1960年のセ・リーグ
打率
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 長嶋茂雄 | 巨人 | .334 |
| 2 | 近藤和彦 | 大洋 | .316 |
| 3 | 中利夫 | 中日 | .312 |
本塁打
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 藤本勝巳 | 大阪 | 22本 |
| 2 | 森徹 | 中日 | 21本 |
| 2 | 興津達雄 | 広島 | 21本 |
打点
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 藤本勝巳 | 大阪 | 76点 |
| 2 | 森徹 | 中日 | 72点 |
| 3 | 王貞治 | 巨人 | 71点 |
◇1960年のパ・リーグ
打率
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 榎本喜八 | 大毎 | .344 |
| 2 | 田宮謙次郎 | 大毎 | .317 |
| 3 | 山内和弘 | 大毎 | .313 |
本塁打
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山内和弘 | 大毎 | 32本 |
| 2 | 野村克也 | 南海 | 29本 |
| 3 | 豊田泰光 | 西鉄 | 23本 |
打点
| 順位 | 選手名 | 球団 | 成績 |
|---|---|---|---|
| 1 | 山内和弘 | 大毎 | 103点 |
| 2 | 野村克也 | 南海 | 88点 |
| 3 | 豊田泰光 | 西鉄 | 87点 |
◇本数が少なくなる要因
1936年秋については、まず試合数と打数の少なさが本塁打の総数を抑える条件だったと考えられる。1957年と1960年は、同年のパ・リーグよりセ・リーグの打率と1チーム1試合平均得点が低かった。ただし、リーグ平均の本塁打数だけでは、22本というタイトルの数字を説明できない。上位打者への本塁打の集中度や、突出した打者がいるかどうかも関係する。[1・2・3・4・5]
◇同年のリーグ平均で比べる
| 年 | リーグ | リーグ打率 | 平均得点 | 平均本塁打 |
|---|---|---|---|---|
| 1957年 | セ | .228 | 3.16点 | 0.558本 |
| 1957年 | パ | .235 | 3.45点 | 0.494本 |
| 1960年 | セ | .232 | 3.26点 | 0.637本 |
| 1960年 | パ | .246 | 3.60点 | 0.638本 |
平均得点・平均本塁打は1チーム1試合当たり。各年・各リーグの全公式戦を対象に、球団の得点/本塁打合計を球団の試合数合計で割った。リーグ打率は安打合計÷打数合計。表示は四捨五入。[2・3・4・5]
◇打撃環境とタイトル争い
1957年のセは、パより打率と平均得点が低い。一方、平均本塁打はセが0.558本、パが0.494本で、セの方が多かった。1960年の平均本塁打はセ0.637本、パ0.638本とほぼ同じだ。リーグ全体で本塁打が少ないことだけを、22本で決着した原因にはできない。
両年のセでは、最多に1本差の打者が2人ずついた。上位が20本台前半に並び、突出して多く打つ選手がいなかったことが、直接タイトルの本数を決めている。同年の成績からは、「得点の出方」と「本塁打が誰に集中したか」を分けて考える必要がある。
◇成績から考えられる要因
投手の力量、打者の顔ぶれ、球場や使用球も本塁打の出方に関係する。ただし、成績だけで球や球場の影響は特定できない。資料から確認できる背景は、創設期の短い日程と、2リーグ制以降の接近した上位成績である。
対象は日本プロ野球の公式戦。歴代記録は2025年シーズン終了時点、資料確認日は2026年10月5日。1936年秋を独立したシーズンとして扱う。球団名は当時の名称を基本とし、表中は大阪・金鯱などに略記。藤本の表記はNPB公式成績の「勝巳」、興津は1960年当時の「達雄」を用いた。