連続フルイニング出場の最多記録は何試合?

1イニングたりとも休むことなく出場し、成績を残し続けた鉄人の記録を追う。

一般的には?

フルイニング出場は、先発して試合開始から終了まで交代せずに出場すること。延長戦では延長の最後まで出る必要があり、途中で代打・代走や守備交代を送られれば成立しない。途中出場でも加算される出場試合数や、公認野球規則9.23(c)が条件を定める「連続試合出場」とは区別する[3][9]。

歴代2位の連続フルイニング出場
739試合

答え

連続フルイニング出場の最多試合数1492試合

最多記録は1492試合で、金本知憲が1999年7月21日(広島)から2010年4月17日(阪神)まで続けた。一軍公式戦のNPB最多記録であり、ギネス世界記録にも認定されている。球団移籍を挟んでも記録は途切れなかった[1][11][23]。

年
1999~2010
選手
金本知憲
チーム
広島東洋カープ/阪神タイガース
カテゴリ
選手・キャリア

普通と比べると

歴代2位の連続フルイニング出場
739試合
連続フルイニング出場の最多記録
1,492試合

歴代2位より753試合多く、約2.02倍。

一般選手の平均ではなく、秋山翔吾の歴代2位739試合との比較。1492-739=753、1492÷739=2.0189…。いずれも一軍公式戦の連続フルイニング出場であり、連続試合出場や1シーズンの試合数とは比べない[1][16]。

詳細

途中交代の翌日から始まった

1999年7月20日、広島の金本は阪神戦に6番・左翼で先発したが、代打を送られた。翌21日は4番・左翼で先発し、延長10回を最後まで戦った。この一戦が、後に10年以上続く連続記録の1試合目となる[5][6]。

出場記録を三つに分けて読む
記録何を数えるか途中出場・交代の扱い
出場試合数その選手が試合に出た回数代打・代走・守備固めでも出場数になる
連続試合出場所定の要件を満たす出場を、チームの試合ごとに続けた数打撃の完了、または一つの守備イニングを最初から最後まで務めることなどが必要
連続フルイニング出場開始から終了までの出場を、続けた試合数先発するだけでは足りず、途中交代もできない

公認野球規則9.23(c)では、連続試合出場を続けるために、打撃を完了するか、自チームの守備1イニングを最初から最後まで務める必要がある。代走だけの出場では条件を満たさない。審判による退場には例外がある[3]。

フルイニング出場では守備位置の変更は妨げにならないが、途中交代は認められない。9回終了が条件なのではなく、延長戦も最後まで出場する。金本の記録初日は延長10回だった[6][9]。

対象は一軍のレギュラーシーズン公式戦。オフや球団移籍を挟んでも連続し、オールスターやポストシーズンは含まない。阪神球団公式の記録では1492試合、計1万3686イニングを出場し続けた[1][4][23]。

◇広島で主力打者になるまで

金本知憲は1968年4月3日生まれ、右投左打の外野手。広陵高、東北福祉大を経て1991年ドラフト4位で広島に入団し、1992年に一軍で5試合に出場した。1年目の一軍安打はゼロ。すぐに毎日出続ける選手だったわけではない[1][2]。

1994年に17本塁打、1995年に24本塁打。1996年は打率.300、1997年は.301、33本塁打を記録し、中軸打者へ成長した。1998年7月10日には、後の1766試合連続出場となる別の記録も始まっている。フルイニングの開始より、約1年早い[1][2]。

記録前日の途中交代

1999年7月20日 広島対阪神17回戦 阪神甲子園球場。金本は6番・左翼で先発し、3打数無安打、1三振。途中で町田康嗣郎が代打に入り、そのまま左翼を守った。広島は1対5で敗れた。出場はしていてもフルイニングではなく、この日を1492試合の中に含めることはできない[5]。

チーム123456789RHE
広島000010000180
阪神00000302×5110

この試合の金本の打球方向や各打席のアウトの種類までは確認できていないため、3打数無安打・1三振という試合単位の成績で示した。代打・守備の交代は試合記録による[5]。

◇1試合目から延長10回

1999年7月21日 広島対阪神18回戦 阪神甲子園球場。31歳の金本は4番・左翼で先発した。広島が3回に先制、阪神が4回に追い付き、1対1のまま延長へ。広島が10回表に勝ち越して2対1で勝った。金本は4打数無安打、2三振、1四球で、10回まで交代せずに出場した[2][6]。

チーム12345678910RHE
広島00100000012100
阪神0001000000160

打撃では無安打に終わった試合が連続記録の初日となった。1999年は7月21日以降56試合、2000~2009年は10シーズンの全試合でフルイニング出場した[1][2][6]。

記録の期間を年ごとに分解する
年球団連続記録に含む試合累計その年の対象期間
1999広島56567月21日以降
2000広島136192シーズン全試合
2001広島140332シーズン全試合
2002広島140472シーズン全試合
2003阪神140612シーズン全試合
2004阪神138750シーズン全試合
2005阪神146896シーズン全試合
2006阪神1461042シーズン全試合
2007阪神1441186シーズン全試合
2008阪神1441330シーズン全試合
2009阪神1441474シーズン全試合
2010阪神181492開幕~4月17日

2000~2009年の合計は1418試合。1999年の56試合と2010年4月17日までの18試合を加えると1492試合になる。部分期間と、各年の全シーズン打撃成績は区別する[1][2][13]。

◇日本記録を超えた時にも、左手を痛めていた

2004年8月1日、三宅秀史の700試合を超える701試合連続フルイニング出場を達成。その直前には死球で左手首を負傷し、右手一本で安打を放ちながら試合に出ていた。2006年4月9日には904試合となり、カル・リプケンの903試合を上回った[4][7][9]。

トリプルスリーも阪神の優勝も記録の途中

2000年は打率.315、30本塁打、30盗塁で、史上7人目のトリプルスリー。2001年は打率.314に加えて128四球、出塁率.463を残した。フルイニング出場は、単に打席に立つ回数を保つだけでなく、主力打者として出塁や長打を求められる中で続いていた[1][2]。

2003年、FAで阪神へ移籍し、全140試合に出場して18年ぶりのリーグ優勝に貢献。2004年は113打点で打点王を獲得した。2005年には自己最多の40本塁打、125打点、打率.327を記録し、阪神のリーグ優勝と自身のMVPを同じシーズンに手にした[1][2]。

各年の成績と記録期間
年球団試合安打本塁打打点打率連続記録
1992広島5000.000開始前
1993広島421749.191開始前
1994広島90691743.268開始前
1995広島1041012467.274開始前
1996広島1261272772.300開始前
1997広島1331403382.301開始前
1998広島1331262174.253開始前
1999広島1351473494.293途中から
2000広島1361563090.315全期間
2001広島1401482593.314全期間
2002広島1401482984.274全期間
2003阪神1401541977.289全期間
2004阪神13816534113.317全期間
2005阪神14618340125.327全期間
2006阪神1461652698.303全期間
2007阪神1441413195.265全期間
2008阪神14416427108.307全期間
2009阪神1441352191.261全期間
2010阪神144851645.241途中まで
2011阪神122761231.218終了後
2012阪神12692630.258終了後

成績欄はすべてその年全体の一軍公式戦成績。「途中から」は1999年7月21日以降、「全期間」は2000~2009年の全試合、「途中まで」は2010年4月17日まで。1999年の147安打、2010年の85安打などを、記録期間だけの数字として示したものではない[2]。

通算試合打数安打本塁打打点四球盗塁打率
25788915253947615211368167.285

2000~2009年の10シーズンを合計すると1418試合、1559安打、282本塁打、974打点。これは10年間の全試合成績であり、1999年と2010年の一部期間を含む1492試合の打撃成績ではない[2]。

◇日本記録直前に左手首を負傷

2004年7月29日の中日戦で、岩瀬仁紀の投球が左手首を直撃した。2024年に紹介された本人の回想では、岩瀬の球を捉えようとスライダーを狙って踏み込んだところ、シュートが当たって骨折したという。本人が後年、記録中の大きな危機として語った出来事である[8]。

それでも翌30日の巨人戦に出場し、右手一本で安打を放った。負傷直後には打撲と報じられたが、後の回顧資料では骨折と説明されている。診断の伝わり方が当時と後年で違うため、「当初から骨折と公表していた」とはしない[9]。

8月1日に701試合の日本新記録

2004年8月1日の巨人戦、甲子園で701試合に到達。阪神・三宅秀史の700試合を上回った。三宅の記録は1957年から1962年にかけてのもので、42年ぶりの日本記録更新だった[4][7]。

当時のNumberの取材によると、左手を痛めた金本は岡田彰布監督に勝利を優先してほしいと伝えたが、監督は4番で起用した。試合は巨人に敗れ、本人は起用への葛藤も語った[7]。

◇2006年4月9日は904試合

2006年4月9日 阪神対横浜 大阪ドーム。金本は904試合連続フルイニング出場となり、MLBのカル・リプケンが持つ903試合を上回った。試合は阪神が10対5で勝利。金本は3打数無安打だったが、2四球と1打点を記録した[4][10]。

日付試合数節目
1999年7月21日1連続記録の開始
2004年8月1日701三宅秀史の700試合を超える
2006年4月9日904リプケンの903試合を超える
2010年4月17日1492連続記録の最後のフル出場

リプケンの903試合も「連続フルイニング出場」。連続試合出場の記録とは別である[4][23]。

頭部死球でも交代しなかった時代

記録中には、2000年8月の巨人戦、2005年6月のホークス戦、2008年5月の巨人戦でも頭部への死球を受けたと、Full-Countの回顧記事は伝えている。2008年にはヘルメットが壊れる衝撃を受けた後も出場を続け、次の打席で通算399号本塁打を放ったという[9]。

負傷中にも先発を続けたのが1492試合の実態だった。左手首の負傷時や頭部死球の際にも出場を継続したことは、当時の取材・後年の回顧に残っている[7][8][9]。

右肩の故障で先発を外れ、代打で再出発した

2010年4月18日、横浜戦の先発メンバーに金本の名前はなかった。右肩痛で送球が難しくなり、本人が先発を外れる考えを伝えたためだ。ただし8回に代打で出場して二ゴロ。フルイニングの記録は終わっても、連続試合出場は続いていた[11][12][14]。

最後の1492試合目

2010年4月17日 阪神対横浜4回戦 横浜スタジアム。42歳の金本は4番・左翼で先発し、4打数無安打、1三振、1失策。阪神は3対7で敗れた。これが1492試合目のフルイニング出場となり、試合後の打率は.167だった[2][13][21]。

チーム123456789RHE
阪神000100020391
横浜02000203×7130

回顧記事によれば、8回裏の左前打を処理した金本の送球は、中継の野手まで届かなかった。右肩の故障は打撃だけでなく左翼守備にも影響していた[9]。

3月の接触から、先発を外れる決断まで

当時の報道によると、金本は3月のオープン戦でノック中に味方選手と接触し、右肩を痛めていた。4月18日も出場を探り、テーピングを施してブルペンで送球を試したが、納得できる状態にはならなかった[12]。

金本は試合後、監督や木戸克彦ヘッドコーチは出場を求めてくれた一方、あの送球では投手に迷惑を掛けると考えた、と説明している。そして「勝つための手段として、僕は外れる」と首脳陣へ伝えた。単なる休養日ではなく、守備への影響を踏まえて本人が先発を外れる考えを示した日だった[12]。

◇翌日の先発に名前がなかった

2010年4月18日 阪神対横浜5回戦 横浜スタジアム。4番は新井貴浩、左翼は葛城育郎が先発し、金本はベンチスタート。連続フルイニング出場は1492試合で終わった[11][14][22]。

チーム123456789RHE
阪神0002010328150
横浜002020000480

阪神は8回のブラゼルの逆転3ランなどで8対4と勝利。金本は同じ8回に代打で出場して二ゴロに終わったが、連続試合出場は1638試合へ伸びた。フルイニング記録が止まっても、出場試合の連続は継続した[3][11][12][22]。

日付起用打撃成績・結果フルイニング記録
1999年7月20日6番・左翼→途中交代3打数0安打、1三振開始前
1999年7月21日4番・左翼、延長10回まで4打数0安打、2三振、1四球1試合目
2010年4月17日4番・左翼、交代なし4打数0安打、1三振1492試合目
2010年4月18日ベンチ開始→8回代打二ゴ1492試合で終了

4月18日の「二ゴ」は当日の取材記事に基づく。ほかの試合の打球方向や全打席の内訳は、確認できた記録以上に補っていない[5][6][12][13][22]。

◇15年後に語った真弓監督と金本

2025年6月22日の阪神OBトークショーでは、当時の監督・真弓明信と金本が、この決断を振り返った。真弓は、あと1試合出れば翌日は試合がないことも伝え、メンバー表を交換する時まで、金本を先発に入れた別の用紙を持っていたと明かしている[15]。

一方、金本はプレーを重ねるほど肩の状態が悪くなったと説明。チームのために出てほしいという言葉に対し、チームのために先発を降りると伝えた趣旨を振り返った。その上で、真弓が連続試合出場にも配慮してくれたことへ感謝している。当日の報道と、後年に同席して語られた回想の両方が残っている[15]。

◇記録が終わってからも現役は続いた

金本は2010年も144試合に出場したが、打席数は前年の619から396へ減った。シーズン成績は16本塁打、45打点、打率.241。フルイニング記録の終了後は、代打などでの起用が増えた[2]。

連続試合出場は2011年4月14日まで1766試合に伸びた。フルイニングの最長1492と、金本自身の連続試合出場1766は、開始日も終了日も違う。2012年は126試合、92安打、6本塁打、30打点、打率.258。この年で現役を終え、通算2539安打、476本塁打を残した。2016~2018年には阪神監督を務め、2018年に野球殿堂入りした[1][2]。

歴代2位は秋山翔吾の739試合

秋山翔吾は西武時代の2014年9月6日から2019年9月26日まで、739試合連続フルイニング出場を記録した。パ・リーグ記録で、NPB歴代2位に当たる。金本の1492試合との差は753試合だった[16][17]。

秋山は2019年8月12日に701試合となり、三宅の700を抜いて歴代単独2位へ進んだ。本人は途中交代のための選手を割かずに済むことを、チームから重宝されている一面として語っていた。最終戦まで出続け、2015~2019年の5年連続全試合フルイニング出場も完成させた[17][18]。

秋山はその後MLBへ移り、2022年に広島でNPBへ復帰。2026年8月26日のDeNA戦でも途中交代しており、西武時代の739試合が現在進行形の記録というわけではない[16][19]。

近年の例では

中日の岡林勇希は、2025年に12球団で唯一、全試合フルイニング出場を果たした。しかし2026年4月3日のヤクルト戦で右脚を痛め、5回に代走を送られて途中交代。連続フルイニング出場は191試合で止まり、翌4日に出場選手登録を抹消された[20]。

岡林は一塁内野安打で出塁した直後に代走を送られたため、この試合はフルイニング出場に当たらない。前年の全試合出場を経ても、1試合の途中交代で連続記録は止まる[3][20]。

対象範囲と集計の注記

対象はNPB一軍レギュラーシーズンの公式戦。1492試合の期間と連続イニング数は阪神球団公式・野球殿堂博物館、年度別打撃成績はNPB公式を優先した。古い個別試合の詳しい打球・守備記録には二次集計を用い、本人や関係者の回想は競技記録と区別した[1][2][4][23]。

秋山の739試合は歴代2位の終了済み記録であり、2026年現在の「継続中」ランキングではない。岡林の191試合も2026年4月に途切れた。資料確認日:2026年10月25日[16][20]。

何がすごいのか

  • 2000~2009年は10年連続で全試合フルイニング出場。その全期間に20本塁打以上を記録した年が9度あり、打線の主軸として出続けた[2]。
  • 10年連続で全試合を完走し、移籍を挟んで1万3686イニングを連続出場。歴代2位の739試合を753試合上回る[16][23]。
  • 最後は右肩痛による送球への影響を理由に、本人が先発を外れる意思を伝えた。記録の終わりには、チームの勝利をどう考えるかという判断もあった[12][15]。

出典