詳細
◇当日の試合とノーゲームの扱い
1975年7月26日、中日球場で行われた中日―広島戦が今回の対象。球団公式年表は、2回表に照明灯が消え、ノーゲームとなったと記す。試合前の開催取りやめとは異なり、始まった競技が途中で成立しなくなった事例である[1]。
日程資料でも当日はノーゲームとされ、前日の7月25日は中日が2対3で敗れ、翌27日は2対0で勝っている。26日の途中経過を、0対0の引き分けとして勝敗表に加えるものではない。27日の試合を26日の正式な振替と認定する資料は今回確認していない[3]。
◇照明が消えた場面と中断に入った場面
読売新聞の翌日朝刊を参照したマイナビの回顧記事は、1回裏の谷沢健一の打席で、三塁側の照明塔1基が消えたと説明する。他の7基は点灯しており、1回裏を0対0で終えてから、午後6時45分に中断したという[2]。
球団年表の「2回表」と回顧記事の「1回裏」は記載が異なる。消灯と中断を別の場面と考えれば時系列は整合し得るが、球団年表が時点をどう要約したかは不明。本文では、公式の記載と回顧記事の説明を分けて示す[1][2]。
◇復旧を待っても再開できなかった
同回顧記事では、トランス回路のショートで電線が焼損し、修復できなかったとされる。審判と両監督らの協議を経て、午後8時7分に中止が決まり、中断は82分に及んだ[2]。
故障したのは全照明ではなく1基だった。それでも、残った照明で長く競技を続けられるとは限らない。どの部分を照らす設備が失われ、復旧できるかが開催を左右した事例と読むことができる。これは資料に基づく考察であり、当日の照度を測定した評価ではない。
◇中止後も球場の混乱は終わらなかった
回顧記事は、中止をめぐって観客がグラウンドへ入り、球場設備を壊す騒ぎになり、警察も対応したと伝える。設備故障で競技を止めた後に、別の安全上の問題が生じた[2]。
観客の混乱はノーゲームを決めた直接の理由とは区別する。当日の各人の行動や、中止宣告と観客侵入の厳密な前後関係を独自に再現しない。
◇照明故障でも再開できた試合との違い
1969年7月22日の平和台球場でのオールスター第3戦も、照明のトラブルで51分間中断した。週刊ベースボールは、月面着陸で世界が沸いた時期だけに、当時の誌面が停電を対照的な話題として扱ったことを紹介している[5]。
ただし、この球宴は中止されていない。NPBの公式記録に、全セと全パが4対4で引き分けた試合として残っている。1975年のノーゲームと並べると、「照明が消えた」ことと「その日の試合が成立しない」ことは同じではないと分かる[4]。
◇同じ球場で初ナイターも広島戦だった
中日球団の公式年表では、1953年6月25日の広島戦が中日球場初のナイターだった。夜間開催を可能にした照明が、その22年後には同じ相手との試合を止める要因になった[1]。
翌1976年、球場は改装され、名称もナゴヤ球場へ変わる。ただし、公式年表が改装と改称を記していることだけで、前年の故障が改装の原因だったとはいえない。現在のナゴヤ球場につながる球場であり、ナゴヤドームとは別の施設である[1]。
◇同じ年の同じカードでもう一度中止
1975年9月11日の広島―中日戦も、天候以外の事情で中止になった。NPBのセ・リーグ略史は、前日の広島球場での乱闘騒ぎの余波による中止と記録している。7月の設備故障と9月の事件は、直接の理由が異なる二つの中止である[6]。
本記事の答えは7月26日の照明故障。9月の事例は同じ年の同じ対戦カードで起きた参考例として扱い、詳細な当事者の証言や責任の認定までは行わない。
確認範囲と資料上の限界
確認日:2026年10月13日。NPB一軍公式戦の1事例を対象とし、天候以外の事情による開始前中止と、開始後のノーゲームを本シリーズに含める。一時中断後に再開した試合は、中止事例として数えない。
日付、対戦、球場、ノーゲームは球団公式年表と日程資料を照合。故障の内部原因、中断・宣告時刻、82分、観客の混乱は、読売新聞1975年7月27日付朝刊を参照する回顧記事に基づく。新聞原紙、電気設備の調査報告、当時の規則原文は直接確認していない[1][2][3]。
回顧記事は照明故障による国内プロ野球初の中止とするが、本記事では歴代全件を検証していないため「史上初」と断定しない。全打席結果、正式な途中スコア表、故障の保守上の責任、振替日も未確認。0対0は回顧の途中経過で、正式な最終結果ではない[2]。