推定年俸が初めて1000万円を超えた選手は誰?

かつて高額年俸の象徴だった「1000万円プレーヤー」。その大台を初めて超えた選手は誰か。年俸資料の食い違いと当時の物価から探る。

一般的には?

推定年俸は報道・後年の調査で示された金額で、契約書の実額とは限らない。契約金、功労金、特別ボーナス、課税申告額を年俸と混ぜてはいけない。今回は「1000万円以上」ではなく「1000万円超」を対象とし、ちょうど1000万円は含めない[1][4][13]。

1959年の民間給与所得者の平均給与
27.35万円

答え

年俸資料に載る暫定候補(NPB史上初は未確定)金田正一・1200万円・1959年(資料上の候補)

後年の年俸一覧では、国鉄の金田正一が1959年に推定1200万円とされる。同じ一覧の1957・1958年は各1000万円であり、この一覧に限れば1959年が金田の初の1000万円超となる。ただし、一覧は算定根拠を明示しておらず、NPB全選手を対象にした史上初の認定はできない。当時の報道で1959年の契約年俸1200万円を直接確認したわけでもない[1][4][8]。

年
1959年
選手
金田正一
チーム
国鉄スワローズ
カテゴリ
選手・キャリア

普通と比べると

1959年の民間給与所得者の平均給与
27.35万円
1959年の推定年俸(暫定候補)
1,200万円

同年の民間平均給与の約43.9倍。

1200÷27.35=43.8756…。国税庁「民間給与実態統計調査」1年勤続者の平均給与27万3500円と比較。NPB選手の平均年俸ではなく、賞与を含む民間給与の参考比較。年俸1200万円自体は後年の一覧に基づく推定値。物価換算は本文で別に扱う[1][5]。

詳細

◇1000万円への到達と超過は別の年

Money Searchの年俸一覧では、1956年900万円、1957・1958年は各1000万円、1959年は1200万円。1000万円に達したのは1957年、1000万円を超えたのは1959年と読める。ただし、これは同サイトの掲載値についての結論である。1959年の金田は58登板、21勝19敗、防御率2.54、313奪三振だった[1][2]。

◇17歳の入団から、勝ち星を重ねる

金田は1933年8月1日生まれ。1950年、17歳で新設球団の国鉄に入団し、その年は30登板で8勝12敗。翌1951年は22勝を挙げた。後年の年俸一覧では入団年120万円、1951年130万円、1952年250万円、1953年400万円とされる。これらは契約書による実額の確認値ではない[1][2][3]。

大台をまたぐ前後の年俸と成績
年推定年俸 万円勝利敗北投球回奪三振防御率
19546002323345 2/32692.63
195580029204003501.78
19569002520367 1/33161.74
1957100028163533061.63
195810003114332 1/33111.30
195912002119304 1/33132.54
196012502022320 1/32842.58

年俸はMoney Searchの後年の一覧[1]、成績はNPBの現行掲載値[2]。年俸資料には旧来の防御率表記も残るが、成績の欄はNPBにそろえた。「304 1/3」は304回3分の1。年は契約の対象シーズンとして示す。更改の実施日・初報日は別途確認できていない。

◇1958年の活躍が、翌年の比較の出発点

1957年は28勝、防御率1.63で最多勝と最優秀防御率を獲得し、8月21日に完全試合を達成した。1958年は31勝、防御率1.30、311奪三振で勝利・防御率・奪三振のリーグ1位となり、沢村賞も3年連続で受賞した[2][3]。

Money Searchでは1958年の年俸を1000万円、1959年を1200万円としており、掲載値の差は200万円、20%。前年の1958年成績と1959年の推定年俸は並べて紹介できるが、昇給の査定内訳は資料にない[1][2]。

1959年は21勝とリーグ最多313奪三振
登板勝利敗北勝率完投完封勝無四球対打者投球回
582119.52514411187304 1/3
被安打被本塁打与四球与死球奪三振暴投ボーク失点自責点防御率
222267933130096862.54

NPB一軍公式戦。1959年は年末満26歳。セーブ等の当時空欄の項目は0で補わない[2]。

1959年は前年の31勝から21勝へ減った一方、奪三振は311から313へ増えてリーグ最多だった。金田の21勝は国鉄の63勝の3分の1、313奪三振はチーム739個の約42.4%、304回1/3はチーム1166回2/3の約26.1%を占めた[2][9]。

◇その後も20勝を続け、巨人へ

1960年は20勝22敗、1961年は20勝16敗、1962年は22勝17敗。1963年には再び30勝に達し、1964年も27勝を挙げた。1951年からの14年連続20勝以上を国鉄で記録し、1965年から巨人に移った[2][3]。

一覧では1960年1250万円、1964年2000万円、巨人移籍初年の1965年2400万円、1968年3800万円とされる。ただし、後述するように当時の報道との不一致がある。年ごとの実額が確定した年俸史として接ぎ合わせず、ひとつの後年資料が示した推移として扱う[1][4][8]。

巨人では1965年11勝、1967年16勝などを挙げ、1969年まで現役で投げた。通算944登板、400勝298敗、4490奪三振、防御率2.34。国鉄と巨人での20年間の成績を残し、1988年に野球殿堂入りした[2][3]。

◇1959年の1200万円を現在の物価で比べる

一覧に記載された1959年の1200万円を物価換算すると、2025年の物価で約7950万円になる。日本銀行が示す全国消費者物価指数「持家の帰属家賃を除く総合」の1959年17.2、2025年114.0を用いた試算で、契約額の確定や現代のプロ野球年俸の査定ではない[1][6]。

2025年の物価では約6.63倍
比較する年消費者物価指数基準
195917.22020年=100
2025114.02020年=100

計算:1200万円 × 114.0 ÷ 17.2 = 約7953.5万円。大まかな表現なら「2025年の物価で約7950万円」、さらに丸めれば「約8000万円に相当する購買力」となる[6]。

使ったのは全国の消費者物価指数「持家の帰属家賃を除く総合」の年平均で、両年とも同じ系列・同じ基準。2025年の一般的な「総合指数111.9」と、1959年の帰属家賃を除く指数17.2を混ぜない。2026年の年平均はまだ確定していないため、比較先は直近の通年である2025年にそろえた[6]。

この換算は一般的な財・サービスの物価水準を比べたもの。土地や住宅など個別商品の価格、現代の球団が支払う年俸を示す数字ではない[6]。

◇民間平均給与の約44年分に相当

国税庁の長期時系列データでは、1959年の1年勤続者の平均給与は27万3500円。推定年俸1200万円はその約43.9倍になる。仮に給与水準が変わらないと置けば約44年分という大きさだが、実際に働いた年数や生涯賃金を計算したものではない。所得税控除前の金額同士を比べ、手取り額の比較にはしていない[1][5]。

ここで比較したのは民間給与所得者の平均であり、NPB選手の平均年俸ではない。当時のNPB平均年俸を同じ基準で比較できる資料は得られていない。

◇他選手と比べると見える当時の大台

1959年の長嶋茂雄は、別の年俸一覧で360万円とされる。金田の推定1200万円は約3.33倍だが、独立した二次資料同士の参考比較であり、両者の契約実額の差を確定するものではない[1][10]。

週刊ベースボールが紹介した1963年末の更改情報では、金田1500万円、中日・マーシャル4万5000ドルという金額が登場する。当時の固定相場1ドル360円で後者は1620万円。ただし、これは1963年末の別時点の数字で、1959年以前の「史上初」を判定する根拠にはならない[8]。

関連記事選手・キャリアNPB初の「1億円プレーヤー」は誰?プロ野球の「1億円プレーヤー」は誰から始まったのか。外国人を含む高額年俸の報道と、日本人初の契約を比べる。

◇1968年になっても球団による差があった

週刊ベースボール1968年1月29日号の回顧では、広島は阪神から移籍した山内一弘が推定1050万円で球団初の1000万円プレーヤーになったとされる。一方、サンケイには該当者がおらず、最高額はロバーツの960万円。「1000万円プレーヤー」は、球界全体に同じように広がった言葉ではなかった[11]。

◇年俸一覧と当時の報道に残る違い

金田は後年、20勝を年俸交渉の基準としていたと振り返った。成績はNPB公式で確認できる一方、年俸は当時の報道と後年の一覧で金額が一致しない。税務資料には功労金なども含まれ、同じ「金額」でも比較する対象が違う[2][4][7][13][14]。

◇20勝を軸にした交渉の回想

2015年のインタビューを再編集した記事で、金田は20勝を下回ると給料が下がり、その代わり20勝すれば文句を言わせないという趣旨を語っている。強気の金額を先に提示し、球団側との中間で折り合う交渉も回想した。契約書の条項や各年の算式を直接確認した話ではなく、本人が後年に語った交渉観として紹介する[7]。

◇1959年オフは移籍せず残留

1959年12月16日号の回顧には、十年選手制度の権利で移籍の可能性があった金田が、国鉄への残留を決めた経緯が残る。特別なボーナスの上限をめぐる誤解などが紹介されており、単なる通常の昇給交渉だけではない時代だったことが分かる。ここでのボーナスは通常の年俸と同じ欄に加算しない[12]。

この1959年末の残留交渉と、1959年シーズンの年俸1200万円という一覧の数字は別に扱う。年末の更改は通常、翌年の契約に関係するため、報道の発行年だけで対象シーズンを決めない[1][12]。

◇資料間の食い違いを残す

1961年5月22日号の「プロ野球長者番付」を紹介した週刊ベースボールの回顧では、金田の2070万円は税務署発表の課税申告額で、10年選手のボーナスも含む。また、1961年オフの交渉を扱った記事には、金田の1800万円のうち300万円が10年選手功労金との説明もある。どちらも「1959年シーズンの契約年俸」を直接示すものではない[13][14]。

論点後年の一覧当時の報道を紹介する回顧
1962年の金田の年俸1500万円[1]1962年12月24日号では現状1080万円[4]
1963年末の更改1964年欄は2000万円[1]金田は1500万円とされる[8]

資料間の金額差は残る。対象年・報酬の内訳・情報源を特定できないため、差額を出来高や手当と決めつけたり、両資料の平均値を「正しい年俸」として採用したりしない[1][4][8]。

1963年末の長嶋について、回顧記事は1000万円台到達と月給130万円の両方を紹介し、編集部自身が表記に疑問を示している。月額を機械的に12倍して年俸を確定させない[8]。

初の認定に残る条件

Money Searchの一覧では金田の1000万円超は1959年の1200万円。ただし1958年以前の他選手・外国人選手・兼任者の選手報酬を網羅した根拠はない。したがって「金田正一・1959年・1200万円」は資料上の候補であり、NPB史上初の確定記録ではない[1]。

史上初を判定するには、1959年以前の各選手について、当時の契約更改報道や選手名鑑などで対象シーズンと推定年俸を確認する必要がある。後年の年俸一覧を1件見るだけでは足りない。

対象範囲と資料の扱い

対象は日本プロ野球の選手のシーズン年俸。契約金、特別ボーナス、広告収入、監督報酬、課税申告額は合算しない。外国人選手も調査対象に含む。公式の個人成績、後年の年俸一覧、当時の専門誌、本人の回想は資料の性格を区別して扱う。確認日:2026年10月24日[1][2][4][13][14]。

何がすごいのか

  • 金田の年俸は後年の一覧で1958年1000万円、1959年1200万円。ただし、NPB史上初と証明された金額ではない[1]。
  • 推定1200万円は1959年の民間平均給与27万3500円の約43.9倍。2025年の物価に直せば約7950万円となる[5][6]。
  • 1961年の長者番付には契約年俸以外の報酬も含まれる。年俸、課税申告額、特別ボーナスを区別することが記録の鍵になる[13][14]。

出典