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◇1000万円への到達と超過は別の年
Money Searchの年俸一覧では、1956年900万円、1957・1958年は各1000万円、1959年は1200万円。1000万円に達したのは1957年、1000万円を超えたのは1959年と読める。ただし、これは同サイトの掲載値についての結論である。1959年の金田は58登板、21勝19敗、防御率2.54、313奪三振だった[1][2]。
◇17歳の入団から、勝ち星を重ねる
金田は1933年8月1日生まれ。1950年、17歳で新設球団の国鉄に入団し、その年は30登板で8勝12敗。翌1951年は22勝を挙げた。後年の年俸一覧では入団年120万円、1951年130万円、1952年250万円、1953年400万円とされる。これらは契約書による実額の確認値ではない[1][2][3]。
| 年 | 推定年俸 万円 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954 | 600 | 23 | 23 | 345 2/3 | 269 | 2.63 |
| 1955 | 800 | 29 | 20 | 400 | 350 | 1.78 |
| 1956 | 900 | 25 | 20 | 367 1/3 | 316 | 1.74 |
| 1957 | 1000 | 28 | 16 | 353 | 306 | 1.63 |
| 1958 | 1000 | 31 | 14 | 332 1/3 | 311 | 1.30 |
| 1959 | 1200 | 21 | 19 | 304 1/3 | 313 | 2.54 |
| 1960 | 1250 | 20 | 22 | 320 1/3 | 284 | 2.58 |
年俸はMoney Searchの後年の一覧[1]、成績はNPBの現行掲載値[2]。年俸資料には旧来の防御率表記も残るが、成績の欄はNPBにそろえた。「304 1/3」は304回3分の1。年は契約の対象シーズンとして示す。更改の実施日・初報日は別途確認できていない。
◇1958年の活躍が、翌年の比較の出発点
1957年は28勝、防御率1.63で最多勝と最優秀防御率を獲得し、8月21日に完全試合を達成した。1958年は31勝、防御率1.30、311奪三振で勝利・防御率・奪三振のリーグ1位となり、沢村賞も3年連続で受賞した[2][3]。
Money Searchでは1958年の年俸を1000万円、1959年を1200万円としており、掲載値の差は200万円、20%。前年の1958年成績と1959年の推定年俸は並べて紹介できるが、昇給の査定内訳は資料にない[1][2]。
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 完投 | 完封勝 | 無四球 | 対打者 | 投球回 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 58 | 21 | 19 | .525 | 14 | 4 | 1 | 1187 | 304 1/3 |
| 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 222 | 26 | 79 | 3 | 313 | 0 | 0 | 96 | 86 | 2.54 |
NPB一軍公式戦。1959年は年末満26歳。セーブ等の当時空欄の項目は0で補わない[2]。
1959年は前年の31勝から21勝へ減った一方、奪三振は311から313へ増えてリーグ最多だった。金田の21勝は国鉄の63勝の3分の1、313奪三振はチーム739個の約42.4%、304回1/3はチーム1166回2/3の約26.1%を占めた[2][9]。
◇その後も20勝を続け、巨人へ
1960年は20勝22敗、1961年は20勝16敗、1962年は22勝17敗。1963年には再び30勝に達し、1964年も27勝を挙げた。1951年からの14年連続20勝以上を国鉄で記録し、1965年から巨人に移った[2][3]。
一覧では1960年1250万円、1964年2000万円、巨人移籍初年の1965年2400万円、1968年3800万円とされる。ただし、後述するように当時の報道との不一致がある。年ごとの実額が確定した年俸史として接ぎ合わせず、ひとつの後年資料が示した推移として扱う[1][4][8]。
巨人では1965年11勝、1967年16勝などを挙げ、1969年まで現役で投げた。通算944登板、400勝298敗、4490奪三振、防御率2.34。国鉄と巨人での20年間の成績を残し、1988年に野球殿堂入りした[2][3]。
◇1959年の1200万円を現在の物価で比べる
一覧に記載された1959年の1200万円を物価換算すると、2025年の物価で約7950万円になる。日本銀行が示す全国消費者物価指数「持家の帰属家賃を除く総合」の1959年17.2、2025年114.0を用いた試算で、契約額の確定や現代のプロ野球年俸の査定ではない[1][6]。
| 比較する年 | 消費者物価指数 | 基準 |
|---|---|---|
| 1959 | 17.2 | 2020年=100 |
| 2025 | 114.0 | 2020年=100 |
計算:1200万円 × 114.0 ÷ 17.2 = 約7953.5万円。大まかな表現なら「2025年の物価で約7950万円」、さらに丸めれば「約8000万円に相当する購買力」となる[6]。
使ったのは全国の消費者物価指数「持家の帰属家賃を除く総合」の年平均で、両年とも同じ系列・同じ基準。2025年の一般的な「総合指数111.9」と、1959年の帰属家賃を除く指数17.2を混ぜない。2026年の年平均はまだ確定していないため、比較先は直近の通年である2025年にそろえた[6]。
この換算は一般的な財・サービスの物価水準を比べたもの。土地や住宅など個別商品の価格、現代の球団が支払う年俸を示す数字ではない[6]。
◇民間平均給与の約44年分に相当
国税庁の長期時系列データでは、1959年の1年勤続者の平均給与は27万3500円。推定年俸1200万円はその約43.9倍になる。仮に給与水準が変わらないと置けば約44年分という大きさだが、実際に働いた年数や生涯賃金を計算したものではない。所得税控除前の金額同士を比べ、手取り額の比較にはしていない[1][5]。
ここで比較したのは民間給与所得者の平均であり、NPB選手の平均年俸ではない。当時のNPB平均年俸を同じ基準で比較できる資料は得られていない。
◇他選手と比べると見える当時の大台
1959年の長嶋茂雄は、別の年俸一覧で360万円とされる。金田の推定1200万円は約3.33倍だが、独立した二次資料同士の参考比較であり、両者の契約実額の差を確定するものではない[1][10]。
週刊ベースボールが紹介した1963年末の更改情報では、金田1500万円、中日・マーシャル4万5000ドルという金額が登場する。当時の固定相場1ドル360円で後者は1620万円。ただし、これは1963年末の別時点の数字で、1959年以前の「史上初」を判定する根拠にはならない[8]。
関連記事選手・キャリアNPB初の「1億円プレーヤー」は誰?◇1968年になっても球団による差があった
週刊ベースボール1968年1月29日号の回顧では、広島は阪神から移籍した山内一弘が推定1050万円で球団初の1000万円プレーヤーになったとされる。一方、サンケイには該当者がおらず、最高額はロバーツの960万円。「1000万円プレーヤー」は、球界全体に同じように広がった言葉ではなかった[11]。
◇年俸一覧と当時の報道に残る違い
金田は後年、20勝を年俸交渉の基準としていたと振り返った。成績はNPB公式で確認できる一方、年俸は当時の報道と後年の一覧で金額が一致しない。税務資料には功労金なども含まれ、同じ「金額」でも比較する対象が違う[2][4][7][13][14]。
◇20勝を軸にした交渉の回想
2015年のインタビューを再編集した記事で、金田は20勝を下回ると給料が下がり、その代わり20勝すれば文句を言わせないという趣旨を語っている。強気の金額を先に提示し、球団側との中間で折り合う交渉も回想した。契約書の条項や各年の算式を直接確認した話ではなく、本人が後年に語った交渉観として紹介する[7]。
◇1959年オフは移籍せず残留
1959年12月16日号の回顧には、十年選手制度の権利で移籍の可能性があった金田が、国鉄への残留を決めた経緯が残る。特別なボーナスの上限をめぐる誤解などが紹介されており、単なる通常の昇給交渉だけではない時代だったことが分かる。ここでのボーナスは通常の年俸と同じ欄に加算しない[12]。
この1959年末の残留交渉と、1959年シーズンの年俸1200万円という一覧の数字は別に扱う。年末の更改は通常、翌年の契約に関係するため、報道の発行年だけで対象シーズンを決めない[1][12]。
◇資料間の食い違いを残す
1961年5月22日号の「プロ野球長者番付」を紹介した週刊ベースボールの回顧では、金田の2070万円は税務署発表の課税申告額で、10年選手のボーナスも含む。また、1961年オフの交渉を扱った記事には、金田の1800万円のうち300万円が10年選手功労金との説明もある。どちらも「1959年シーズンの契約年俸」を直接示すものではない[13][14]。
| 論点 | 後年の一覧 | 当時の報道を紹介する回顧 |
|---|---|---|
| 1962年の金田の年俸 | 1500万円[1] | 1962年12月24日号では現状1080万円[4] |
| 1963年末の更改 | 1964年欄は2000万円[1] | 金田は1500万円とされる[8] |
資料間の金額差は残る。対象年・報酬の内訳・情報源を特定できないため、差額を出来高や手当と決めつけたり、両資料の平均値を「正しい年俸」として採用したりしない[1][4][8]。
1963年末の長嶋について、回顧記事は1000万円台到達と月給130万円の両方を紹介し、編集部自身が表記に疑問を示している。月額を機械的に12倍して年俸を確定させない[8]。
初の認定に残る条件
Money Searchの一覧では金田の1000万円超は1959年の1200万円。ただし1958年以前の他選手・外国人選手・兼任者の選手報酬を網羅した根拠はない。したがって「金田正一・1959年・1200万円」は資料上の候補であり、NPB史上初の確定記録ではない[1]。
史上初を判定するには、1959年以前の各選手について、当時の契約更改報道や選手名鑑などで対象シーズンと推定年俸を確認する必要がある。後年の年俸一覧を1件見るだけでは足りない。
対象範囲と資料の扱い
対象は日本プロ野球の選手のシーズン年俸。契約金、特別ボーナス、広告収入、監督報酬、課税申告額は合算しない。外国人選手も調査対象に含む。公式の個人成績、後年の年俸一覧、当時の専門誌、本人の回想は資料の性格を区別して扱う。確認日:2026年10月24日[1][2][4][13][14]。