1球団・1シーズンの規定到達者は最多何人?

主力が一年を通して出続けたチームは、投打の規定に何人が届いただろうか。規定打席と規定投球回の到達者を合わせ、選手起用と年間成績からその顔ぶれを追う。

一般的には?

規定打席と規定投球回は、打率と防御率の比較に必要な出場量の基準。代表例と同じリーグの他5球団では、投打を合わせた到達者が平均9.20人だった。投打の両方に達した選手は重複を除いて数える。これは年間の出場量を測る数字で、先発オーダーの固定回数とは異なる[B1]。

代表年・同リーグの他5球団の平均
9.2人

答え

1球団・1シーズンの最多規定到達者数14人

答えは14人。近鉄バファローズが1979年と1980年に、規定打席到達者8人、規定投球回到達者6人を記録した。両年とも403打席・130投球回が基準で、投打の重複はない。規定打席・規定投球回を基準とする1957年以降の年度別集計で最多となる。戦前には異なる規定による同数例がある[A1][A3][B1][B2]。

年
1979/1980
チーム
近鉄バファローズ(1979年) 近鉄バファローズ(1980年)
カテゴリ
シーズン・順位

普通と比べると

代表年・同リーグの他5球団の平均
9.2人
1球団・1シーズンの最多規定到達者
14人

他5球団の平均より4.80人多く、約1.52倍。

1980年パ・リーグの規定到達者を比較。近鉄14人に対し、日本ハム10、ロッテ9、西武9、阪急9、南海9の計46人、平均9.20人(46÷5)。差4.80人、倍率1.52倍(小数第3位で四捨五入)。前後期は年間合算。資料確認日:2026年10月19日[B1][B2]。

詳細

◇打者最多と投打の合計最多は違う

打者だけでは1991年のオリックスに9人の例があるが、同年の規定投球回到達者は4人で、投打合計は13人だった。打者の最多人数と、投打合計の最多人数は一致しない[B1]。

順位年球団名規定打席到達規定投球回到達重複人数
11979近鉄86014
11980近鉄86014
31991オリックス94013

1957~2026年の年度別集計で13人以上となった上位3例。人数の順位は本稿独自の集計で、NPBの表彰・公認記録部門ではない。各年の規定に従って数え、戦前の異なる基準による例は後述する[A6][B1][B2]。

両年とも年間130試合のため、規定打席は130×3.1=403打席、規定投球回は130回。打率の例外規定で順位表に載る未到達者は、今回の人数には加えない。投打の両方を満たす選手がいる場合も1人と数える[A2][B2]。

初優勝と連覇を支えた主力たち

西本幸雄監督率いる近鉄は、1979年に前期優勝から阪急とのプレーオフを3連勝で制し、球団初のリーグ優勝。1980年は後期を制し、前期優勝のロッテとのプレーオフにも3連勝して連覇した。1979年の年間勝率は、近鉄.622、阪急.630。年間勝率首位の球団が優勝するとは限らない前後期制だった[A1][B3]。

2年間で共通して規定に達したのは11人。打者は平野光泰、栗橋茂、石渡茂、小川亨、佐々木恭介、羽田耕一、マニエルの7人。投手は井本隆、柳田豊、村田辰美、鈴木啓示の4人で、各年の残る3人は入れ替わった[A3][B1]。

区分1979年だけ到達1980年だけ到達
打者アーノルド梨田昌崇
投手山口哲治・太田幸司橘健治・久保康生

両年とも近鉄に在籍した選手の、規定到達の有無を比べた表。新加入・退団を意味しない。梨田の選手名は当時の登録名「昌崇」を使い、後年の報道で用いられる「昌孝」と区別する[A3][B3]。

◇1979年パ・リーグの順位とチーム成績[A1][B1]

最終順位球団名前期順位後期順位勝利敗北引分試合勝率打率得点本塁打盗塁防御率失点奪三振打席到達投球回到達到達人数
1近鉄12744511130.622.2856721951403.705315768614
2阪急21754411130.630.2816951931673.845465946410
3日本ハム3463607130.512.2665921311854.095695258412
4ロッテ43556312130.466.274576150724.30597677549
5南海56467311130.387.2765581251004.866894716410
6西武65457312130.381.259525140614.60686637538

最終順位は前後期制のプレーオフで優勝した近鉄を1位とするNPB掲載順。勝敗・成績は年間130試合の合計で、プレーオフを含まない。到達人数は独自集計[A1][B1]。

◇1980年パ・リーグの順位とチーム成績[A1][B1]

最終順位球団名前期順位後期順位勝利敗北引分試合勝率打率得点本塁打盗塁防御率失点奪三振打席到達投球回到達到達人数
1近鉄2168548130.557.290791239854.966946098614
2ロッテ13645115130.557.2806391841144.15588646549
3日本ハム22665311130.555.2645931671153.615137066410
4西武6462644130.492.267651219454.43634687549
5阪急4558675130.464.2626472041575.08731490549
6南海5648775130.384.274623183805.63784476729

最終順位はプレーオフ優勝の近鉄を1位とするNPB掲載順。勝敗・成績は年間130試合の合計で、プレーオフを含まない。近鉄とロッテの勝率はともに表示上.557だが、実数は68÷122と64÷115で異なる。到達人数は独自集計[A1][B1]。

1979年の近鉄は672得点、打率.285、195本塁打で、防御率3.70はリーグ最良。1980年は791得点、打率.290、239本塁打へ伸ばした一方、防御率4.96、694失点だった。同じ14人が規定に達しても、前年と投手成績は大きく異なる[A1]。

1試合平均得点は1979年の5.17点(672÷130)から1980年の6.08点(791÷130)へ増えた。得点は119点増、失点は163点増。規定投球回到達者が6人いても、投手成績が良好だったことを意味しない[A1]。

◇代表オーダーに規定到達の8打者がそろう

パ・リーグは1975年から指名打者制を採用している[A4]。代表例には1980年10月1日の阪急戦、西京極球場で7対2と勝った日の実際の先発を選んだ。平野、小川、佐々木、マニエル、栗橋、羽田、梨田、石渡という年間規定到達8人に、二塁のアーノルドを加えた編成だった。年間で最も多かった打順の組み合わせと認定したものではない[B4]。

◇先発オーダーと1980年の個人シーズン成績[A3][B4]

打順位置選手名試合打席打数安打本塁打打点盗塁四球三振打率長打率規定到達
1(中)平野光泰1305744961412368136964.284.486はい
2(一)小川亨114406344111155514726.323.523はい
3(右)佐々木恭介112414359114196684036.318.526はい
4(指)C.マニエル1185204591494812905866.325.673はい
5(左)栗橋茂124505436143288495271.328.585はい
6(三)羽田耕一115446401109308063852.272.534はい
7(捕)梨田昌崇118404360105155512758.292.500はい
8(二)C.アーノルド9127925464113712257.252.421いいえ
9(遊)石渡茂1174223739994753533.265.391はい

打順・守備位置は10月1日の実際の先発、数値は同日の途中成績ではなく1980年の最終成績。アーノルドは279打席で規定未到達。指名打者制のため投手は打順に入らない[A3][B4]。

マニエルは48本塁打・129打点で二冠、栗橋は打率.328・28本塁打、羽田は30本塁打。下位に置かれた梨田にも15本塁打があり、規定到達8人で187本、球団239本の約78.2%を占めた。規定未到達の有田修三16本、吹石徳一12本、アーノルド11本も加わり、主力以外にも長打があった[A1][A3]。

◇1979年の規定打席到達8人[A3]

選手名試合打席打数安打本塁打打点盗塁四球三振打率長打率
平野光泰1225304731321851214460.279.431
栗橋茂1304944461303280163360.291.556
石渡茂1214433951111145103535.281.423
C.アーノルド116433395114176562662.289.481
小川亨118430376104124424325.277.426
佐々木恭介1114153631161846143738.320.504
羽田耕一119405351961349114246.274.439
C.マニエル97403333108379406562.324.712

全8人が規定の403打席に到達。打席数順に掲載。梨田昌崇は400打席で3打席足りなかった。数値はNPB個人年度別成績[A3]。

1979年のマニエルは97試合で規定ちょうどの403打席に到達した。死球で顎を骨折し、フェースガード付きヘルメットで復帰。それでも37本塁打で本塁打王とMVPを獲得した。主砲が負傷離脱したシーズンでも、近鉄は打者8人が規定に達している[A1][A3][B7]。

◇1979年の規定投球回到達6人[A3][B3]

選手名登板先発救援登板勝利敗北セーブ完投完封投球回被安打四球死球奪三振失点自責点防御率
村田辰美4326171282113192 1/32073449881733.42
井本隆332671541921921944979391773.61
柳田豊3724131113412218716543310296854.09
山口哲治36102677440148 1/31393225747412.49
太田幸司312011740411361354164755503.31
鈴木啓示24195108061134 2/31483749171664.40

投球回・防御率などの年間成績はNPB公式、先発数はウスコイ企画による。救援登板は登板数-先発数。投球回の1/3・2/3はアウト数を示す。鈴木啓示の防御率4.40はNPB公式掲載値を採用した[A3][B3]。

◇1980年の規定投球回到達6人[A3][B3]

選手名登板先発救援登板勝利敗北セーブ完投完封投球回被安打四球死球奪三振失点自責点防御率
柳田豊4623231397123211 1/3190599150102954.05
井本隆352871581121205 2/3217595941181004.37
鈴木啓示26242148012217916152310086773.87
橘健治352015811160146 1/315951875102965.92
村田辰美3618187723013616557652105946.22
久保康生34102485340130 1/31304536961584.02

投球回・防御率などの年間成績はNPB公式、先発数はウスコイ企画による。救援登板は登板数-先発数。防御率は久保4.02、井本4.37、橘5.92などNPB公式掲載値を採用し、異なる数値の二次資料より優先した[A3][B3]。

1979年の山口哲治は36登板中26試合が救援で、148回1/3を投げて防御率2.49のタイトルを獲得した。1980年の久保康生も34登板のうち24試合が救援。柳田豊は先発と救援に23試合ずつ登板し、211回1/3、13勝7セーブを記録した。6人の規定到達者は、固定された先発6人を意味しない[A1][A3][B3]。

規定に達した6投手の先発登板数は1979年125、1980年123。投球回の合計は990回1/3、1008回2/3で、球団全体の1149回、1147回に対してそれぞれ86.2%、87.9%を占めた[A1][A3][B3]。

◇最後の一試合で3人が届いた

1980年の近鉄は日本シリーズを11月2日に終えた後、11月8日に阪急との前期未消化試合を戦った。これが年間130試合の最終戦で、試合結果は規定到達者数を左右した。日本シリーズの成績を規定打席・規定投球回へ足したわけではない[A5][B3][B4]。

11月8日の小川亨は5打数3安打2打点の5打席、梨田昌崇は5打数2安打2打点、1四球の6打席。久保康生は6回を投げて勝利投手となった。年間成績から当日の成績を引くと、試合前は小川401打席、梨田398打席、久保124回1/3で、3人とも規定未到達だった[A3][B4]。

選手名到達対象最終戦前最終戦で追加年間最終規定
小川亨打席401打席5打席406打席403打席
梨田昌崇打席398打席6打席404打席403打席
久保康生投球回124 1/3回6回130 1/3回130回

試合前の数値は年間成績から11月8日の成績を引いて算出。小川401+5=406打席、梨田398+6=404打席、久保124回1/3+6回=130回1/3。当日で打者の到達者は6人から8人、投手は5人から6人、計11人から14人へ増えた[A3][B4]。

◇1980年11月8日 阪急対近鉄・前期13回戦 藤井寺球場[B4]

球団名123456789RHE
阪急000020000232
近鉄20252100x12180

R=得点、H=安打、E=失策。xは9回裏を行わなかったことを示す。観衆は復元試合資料の記載で1500人。レギュラーシーズンの130試合に含まれる[B3][B4]。

近鉄は4回までに9点を奪い、18安打で12対2の大勝。小川と梨田が2打点ずつを挙げ、島本講平は5打数5安打3打点。先発9人のほかに平野光泰ら3人が途中出場した[B4]。

◇近鉄の当日オーダーと打撃成績[B4]

打順位置選手名打数安打打点三振四死球盗塁失策
1(指)梨田昌崇5221100
2(三)永尾泰憲6100000
3(一)小川亨5320000
4(二)石渡茂1110000
4代走林正広0000010
4代走→二西村俊二4201000
5(遊)吹石徳一5200000
6(右)島本講平5530000
7(中)藤瀬史朗3100210
8(左)阿部成宏4130100
8左平野光泰0000000
9(捕)石山一秀4010100

打順は途中出場者を同じ打順に並べた。近鉄の合計は42打数18安打12打点、2三振、5四死球、2盗塁、失策0。年間成績ではなく11月8日の試合成績[B4]。

久保は先発で6回3安打2失点、1奪三振、無四死球。橘健治は残る3回を無安打無失点で投げてセーブを記録した。年間を通じて先発と救援を兼ねた2人が、最終戦も継投で勝利した[A3][B4]。

◇固定だけでは説明できない捕手の併用

梨田が規定に届いた1980年でも、捕手は一人に固定されていない。有田修三は95試合・256打席、打率.309、16本塁打。梨田は118試合・404打席、打率.292、15本塁打で、捕手の守備出場はそれぞれ46試合・102試合だった。同じ試合に両者が出る場合があるので、守備試合数を足してチーム試合数とはしない[A3][B3]。

日刊スポーツの回顧コラムは、西本監督が梨田と有田を併用し、梨田は井本や村田、有田は鈴木と組んだことを紹介する。梨田本人も、相手に負けまいという競争が配球の工夫につながったと振り返っている。この証言は、最多人数の年に役割の分担があったことを説明する。到達人数だけで、全守備位置が同じ選手に固定されたとは言えない[B5]。

1980年の規定打席到達8人は合計3691打席で、球団の5134打席の71.9%。規定投球回到達6人も球団の投球回の87.9%を占めた。ただし出場量は同じ打順・守備位置での連続先発を表す数字ではない。捕手の併用や先発・救援の兼任と区別して読む必要がある[A3][B3]。

規定打数や登板数まで含めた戦前の同数例

当時の規定打数と登板数で人数を数えると、1937年秋の名古屋軍も合計14人だった。規定打数100以上の打者9人と10登板以上の投手5人で、投打の重複はない。一方の1937年春は規定打数101以上の打者10人、10登板以上の投手3人で計13人。現在の中日に連なる名古屋軍は、名古屋金鯱軍と別球団だった[B2][B6]。

年・季節球団名当時の規定打数到達当時の規定登板数到達重複人数
1937年春名古屋103013
1937年秋名古屋95014

春は56試合で名古屋が21勝35敗・8球団中7位、秋は49試合で13勝33敗3分・8位だった。春秋は別々に集計し、当時の規定打数・規定登板数による結果を現行の規定打席・規定投球回とは区別する[A7][B2][B6]。

戦前の投手基準は投球回ではなく登板数で、打者も規定打席でなく規定打数を用いた。このため本稿の「規定打席・規定投球回」の集計には1937年の名古屋軍を混ぜない。旧基準では1937年秋が14人で近鉄と同数、春は13人。1936~1949年の原稿の編纂ランキング集計では、14人を超える例はなかった[B2][B6]。

同じ顔ぶれが続いた後の変化

近鉄は1979年、1980年の日本シリーズでともに広島に3勝4敗で敗れた。1980年の第7戦は11月2日。その6日後にレギュラーシーズン最終戦を行い、規定到達者が3人増えた[A5][B4]。

1980年オフにマニエルは近鉄を去り、1981年はヤクルトでプレーした。2年連続の14人には11人の共通選手がいたが、残る3人は年ごとに異なった。近鉄の初優勝と連覇を、異なる顔ぶれの規定到達者が支えていた[A3][B7]。

確認範囲と集計方法

資料確認日:2026年10月19日。1957~2025年は両リーグの規定到達者ランキングを球団別に集計し、2026年はNPB公式の両リーグの最終成績を参照した。1950~1956年は打者の基準が規定打数のため本集計と区別する。最多の14人は近鉄の1979・1980年、次点13人はオリックスの1991年という原稿の全年度集計結果を基礎とした[A6][B1][B2]。

1936~1949年は年度別の編纂ランキングを参照し、1937・1938年の春秋は別シーズンとして集計した。1936年春は同形式の比較表がなく、1936年は秋の資料を使用。1945年は公式戦がなかった。2026年の到達人数は第1稿のNPB公式リーダーズによる集計を引き継ぎ、今回は全球団分を再集計していない[A6][B2][B6]。

一軍レギュラーシーズンを対象とし、前後期制は年間合算、同一選手の投打重複は除く。途中移籍選手の他球団分を移籍先の規定到達者に加えない。プレーオフ、日本シリーズ、球宴、二軍、オープン戦、海外リーグは対象外。古いランキングの所属表記は資料に合わせた。

近鉄の各年14人はNPB個人年度別成績の打席数・投球回で照合した。先発数、守備出場数、各試合の打順・成績はウスコイ企画の編纂・復元資料を使用。最終戦前の数値は年間成績から同日の成績を差し引いたもの。新聞原紙・原スコアカードの独自再集計ではない。全年度の候補抽出は二次資料による集計であり、NPB公認の歴代ランキングではない[A3][B1][B3][B4]。

何がすごいのか

  • 打者8人・投手6人の計14人に達したシーズンが2年連続であった[A3][B1]。
  • 1980年はレギュラーシーズン最終戦だけで打者2人・投手1人が規定に届き、到達者が11人から14人へ増えた[A3][B4]。
  • 捕手の併用と投手の先発・救援兼任があり、同じ先発メンバーへの固定とは違う記録だった[B3][B5]。

出典