初打席と現役最終打席の両方で本塁打を放った選手は?

初打席で本塁打を放ち、現役最後の打席でも本塁打。長い年月を隔てた二つの一発は、どの試合で生まれたのか。両試合と、その間の歩みをたどる。

一般的には?

初出場の試合で本塁打を打っても、初打席で打ったとは限らない。引退試合で本塁打を打っても、その後に別の打席があれば最終打席本塁打ではない。今回はNPB一軍公式戦の初打席と最終打席を、それぞれ別の本塁打で飾った選手を取り上げる[2]。

答え

初打席と最終打席の両方で本塁打を放った選手小野公誠

答えは小野公誠(おの・こうせい)。ヤクルト一筋の捕手で、1997年7月20日の巨人戦の初打席に2ラン、2008年10月12日の横浜戦の現役最終打席に決勝ソロを放った。どちらも神宮球場で、別々の本塁打である[1][2][3][4]。

年
1997年 2008年
選手
小野公誠
チーム
ヤクルトスワローズ(1997年) 東京ヤクルトスワローズ(2008年)
カテゴリ
選手・キャリア

詳細

488打席の両端が本塁打

小野は1997~2008年の12年間に一軍公式戦244試合、488打席、90安打、16本塁打を記録。初打席と最終打席を除いても486打席、14本塁打がある。さらに、初年度の1997年と最終年度の2008年は、それぞれ唯一の安打が本塁打だった[1]。

生涯成績
試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点
24448845141901201615048
盗塁盗塁刺犠打犠飛四球死球三振併殺打打率長打率
1110421212811.200.333

出塁率は.236。通算打率は90÷451=.200、長打率は150÷451=.333。いずれも一軍公式戦の成績で、二軍や日本シリーズは含めない[1]。

年別に見る出場機会
年試合打席打数安打本塁打打点打率
1997432112.500
1998000000—
1999000000—
2000999101.111
20013598891926.213
200241848018411.225
2003444540803.200
2004294240713.175
20056217816433718.201
2006100000.000
2007101816203.125
200891111111.091

1998・1999年は一軍出場がない。2006年は1試合に出場したものの打席は0で、打率欄の.000はNPB公式の表示を転記したもの。実際に一軍出場したのは12年間のうち10シーズンだった[1]。

◇大学からドラフト4位で入団

小野は1974年7月11日生まれ、右投げ右打ち。聖望学園高から東北福祉大を経て、1996年ドラフト4位でヤクルトに入団した。初出場時は23歳、最終出場時は34歳だった[1]。

聖望学園高では1学年上の門倉健とプレーし、東北福祉大では門倉とバッテリーを組んだ。大学4年時には春季リーグの最優秀選手となり、日米大学野球では4番を打ったと紹介されている[5][15]。

◇一軍と二軍で残した新人年の結果

1997年の一軍は4試合3打席、2打数1安打。その唯一の安打が初打席の本塁打だった。二軍では40試合、打率.344、4本塁打、14打点で、イースタン・リーグの優秀選手賞に選ばれた[1][6]。

古田を支えた捕手として

正捕手の古田敦也がいたため、小野は控え捕手として出場機会を得た。2000年までの一軍出場は13試合だったが、2001年は35試合98打席、2002年は41試合84打席。2003年は44試合でも45打席と、途中出場の機会も多かった[1]。

最多出場は2005年の62試合。178打席、33安打、7本塁打、18打点も自身の年間最多だった。捕手として54試合に出場し、281刺殺、16補殺、失策0、捕逸3。同年は古田が87試合、米野智人が30試合でマスクをかぶっている[1][7]。

◇終盤も二軍では打っていた

2006年以降の一軍出場は1試合、10試合、9試合と減った。人物紹介では膝の故障や、米野智人・福川将和らとの捕手争いが挙げられている。2007年には一塁手としての起用もあった[1][5]。

2007年の二軍では56試合、139打数52安打、打率.374、6本塁打、34打点。出塁率.429、長打率.568と好成績を残した。ただし規定打席には達しておらず、首位打者ではない[8]。

◇新人捕手は古田の後にマスクをかぶった

1997年7月20日、神宮での巨人17回戦。小野は9回表に古田敦也に代わる捕手として初出場し、その裏、9番で初打席を迎えた。巨人の新人・三澤興一から2ランを放ったが、試合は4対7で敗れた[2][3][5]。

1997年7月20日 巨人17回戦 神宮
チーム123456789RHE
巨人2000104007160
ヤクルト002000002491

ヤクルトは3回に辻発彦の2号2ランで同点にしたが、巨人は5回に1点、7回に4点を追加。松井秀喜の25号、清原和博の15号も飛び出し、9回裏を迎えた時点では2対7だった[3]。

◇9回表から捕手として初出場

小野は9回表、古田に代わって捕手の守備に就き、9番の投手枠に入った。一方、古田が務めていた4番の枠には投手が入った。9回裏に巡ってきたのが小野の初打席で、1打数1安打2打点を記録した[3][5]。

位置選手名打順打撃結果
(捕)小野公誠9本②

②は打点。初打席で三澤興一から2ランを放ち、初安打・初本塁打・初打点が同時に記録された。球団のメディアガイドにも、小野は1997年の初打席初本塁打選手として掲載されている[2][3][9]。

◇5点差を3点差に縮めたが、勝利には届かなかった

小野の2ランでヤクルトは4対7としたが、反撃はそこまで。勝利投手は桑田真澄、敗戦投手は田畑一也で、木田優夫にセーブが付いた[3]。

この日の小野は1打席だけ。古田は先発捕手として3打数無安打、1四球で、その交代から小野の一軍での打席が始まった[3]。

二つの打席を並べると
項目初打席最終打席
日付1997年7月20日2008年10月12日
年齢23歳34歳
相手巨人横浜
球場神宮神宮
打席9回裏・9番8回裏・7番の代打
相手投手三澤興一牛田成樹
結果2ラン本塁打ソロ本塁打
得点の変化2対7→4対73対3→4対3
試合結果4対7で敗戦4対3で勝利

初打席から最終打席までは4102日(11年2カ月22日)。日数は両試合日から、年齢は生年月日からそれぞれ計算した[1][2][3][4]。

最後の一発は、そのまま決勝点になった

2008年10月12日、神宮での横浜24回戦。3対3の8回裏2死、田中浩康に代わる代打として登場した小野は、牛田成樹から勝ち越しの1号ソロを放った。9回表を林昌勇が締め、ヤクルトは4対3で勝利。最終打席の一打が、引退試合の勝利を決めた[2][4][5]。

2008年10月12日 横浜24回戦 神宮
チーム123456789RHE
横浜000000300350
東京ヤクルト02001001×480

観衆2万2062人、試合時間2時間43分。ヤクルトは2回に2点を先制し、5回に飯原誉士の9号ソロで3対0とした。だが7回表、横浜の村田修一が押本健彦から46号3ランを放ち、3対3に追い付いた[4]。

◇四人が神宮に別れを告げる日

この日は小野だけでなく、真中満、度会博文、河端龍の引退試合でもあった。河端は6回に打者1人を三振に取り、度会は途中の代打で1打数無安打。真中も8回に代打で出場し、牛田の前に空振り三振に倒れていた[4][10]。

◇同点の8回裏2死に登場

小野が出たのは3対3の8回裏2死。7番・田中浩康の代打として、横浜5番手の牛田成樹と対戦した。ここで今季1号ソロを放ち、スコアを4対3に変えた。現役最後の打席で放った本塁打が、勝ち越しの一打になった[2][4][5]。

位置選手名打順打撃結果打数安打打点
(代打)小野公誠7本①111

①は打点。これは小野の通算16号で、2008年の唯一の安打でもある。最終打席前は10打数無安打だったが、この一打を加えて11打数1安打(打率.091)で引退した[1][4]。

牛田の1イニングは3三振と1本塁打
投手名投球回打者被安打与四球与死球奪三振自責点
牛田成樹1410031

牛田はこの回の3アウトをすべて三振で取り、唯一許した安打が小野の決勝ソロだった。真中満も同じ8回、牛田から空振り三振を喫した。真中は引退の挨拶でその三振を笑いに変えたという[4][10]。

◇小野の後に、もう打席は回ってこなかった

小野は代打での出場を終え、その後は宮本慎也が遊撃に入った。9回表は林昌勇が1回3打者、2奪三振で無失点。ヤクルトがリードしたまま試合を終えたため、9回裏の攻撃はなく、小野の本塁打が現役最後の打席として確定した。勝利投手は松岡健一、林には33セーブ目が付いた[4]。

◇四人の引退セレモニー

試合後には4選手の引退セレモニーが行われた。小野が「本塁打で始まり、本塁打で終わった」現役生活を宝物と語ったことが人物紹介で伝えられている。交流先の当時の記事には、息子から花束を受け取った場面も残る[5][11]。

◇引退後も捕手の経験を生かした

引退後は2009~2012年にスコアラー、2013年に二軍バッテリーコーチ、2014年に一軍バッテリーコーチを務めたと紹介される。2014年の一軍コーチ配置は専門誌でも確認できる。なお、NPBの任意引退公示は2008年11月25日で、最終出場日とは異なる[5][12][14]。

一打席だけの本塁打との違い

塩瀬盛道とドン・シュルジーはNPBでの通算1打席が本塁打だったため、最初と最後が同じ打席に当たる。小野は488打席の最初と最後に別々の本塁打を放った。なお、井口資仁もデビュー戦と引退試合の両方で本塁打を打ったが、初本塁打はデビュー戦の第3打席であり、初打席本塁打とは異なる[2][13]。

記録の範囲と確認できたこと

対象はNPB一軍レギュラーシーズンの打席。初出場試合や最終出場試合のどこかで本塁打を打つだけの例、二軍、オープン戦、日本シリーズなどは混ぜない。現在も現役の選手は最終打席が確定していないため対象外とする。

年度別成績と2008年の試合はNPB公式、1997年の試合は専門記録サイトと球団資料を用いた。打球方向・球種・投球数は採用資料から確定できず、打席表は「本②」「本①」とした。1997年の初出場は代打ではなく、捕手として守備に就いてからの初打席である[3][4][9]。

「NPB史上唯一」の位置付けは2020年の専門記録記事を根拠とし、2026年までの全選手を独立に再集計したものではない。通算一軍成績と二軍成績は別集計。学生時代と引退後の経歴、本人の発言は二次資料を含む。資料確認日:2026年10月26日。

何がすごいのか

  • 最初と最後は別々の本塁打。1打席だけで引退した例と違い、488打席のキャリアを二つのアーチが挟んでいる[1][2]。
  • 初打席は敗戦の終盤に放った2ラン、最終打席は同点からの決勝ソロ。同じ神宮でも、試合の中での役割は違った[3][4]。
  • 1997年と2008年は、ともにシーズン唯一の安打が本塁打。通算16本のうち初本塁打と最終本塁打が、両年の唯一の安打でもあった[1]。

出典