詳細
488打席の両端が本塁打
小野は1997~2008年の12年間に一軍公式戦244試合、488打席、90安打、16本塁打を記録。初打席と最終打席を除いても486打席、14本塁打がある。さらに、初年度の1997年と最終年度の2008年は、それぞれ唯一の安打が本塁打だった[1]。
| 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 244 | 488 | 451 | 41 | 90 | 12 | 0 | 16 | 150 | 48 |
| 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1 | 10 | 4 | 21 | 2 | 128 | 11 | .200 | .333 |
出塁率は.236。通算打率は90÷451=.200、長打率は150÷451=.333。いずれも一軍公式戦の成績で、二軍や日本シリーズは含めない[1]。
| 年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997 | 4 | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | .500 |
| 1998 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | — |
| 1999 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | — |
| 2000 | 9 | 9 | 9 | 1 | 0 | 1 | .111 |
| 2001 | 35 | 98 | 89 | 19 | 2 | 6 | .213 |
| 2002 | 41 | 84 | 80 | 18 | 4 | 11 | .225 |
| 2003 | 44 | 45 | 40 | 8 | 0 | 3 | .200 |
| 2004 | 29 | 42 | 40 | 7 | 1 | 3 | .175 |
| 2005 | 62 | 178 | 164 | 33 | 7 | 18 | .201 |
| 2006 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
| 2007 | 10 | 18 | 16 | 2 | 0 | 3 | .125 |
| 2008 | 9 | 11 | 11 | 1 | 1 | 1 | .091 |
1998・1999年は一軍出場がない。2006年は1試合に出場したものの打席は0で、打率欄の.000はNPB公式の表示を転記したもの。実際に一軍出場したのは12年間のうち10シーズンだった[1]。
◇大学からドラフト4位で入団
小野は1974年7月11日生まれ、右投げ右打ち。聖望学園高から東北福祉大を経て、1996年ドラフト4位でヤクルトに入団した。初出場時は23歳、最終出場時は34歳だった[1]。
聖望学園高では1学年上の門倉健とプレーし、東北福祉大では門倉とバッテリーを組んだ。大学4年時には春季リーグの最優秀選手となり、日米大学野球では4番を打ったと紹介されている[5][15]。
◇一軍と二軍で残した新人年の結果
1997年の一軍は4試合3打席、2打数1安打。その唯一の安打が初打席の本塁打だった。二軍では40試合、打率.344、4本塁打、14打点で、イースタン・リーグの優秀選手賞に選ばれた[1][6]。
古田を支えた捕手として
正捕手の古田敦也がいたため、小野は控え捕手として出場機会を得た。2000年までの一軍出場は13試合だったが、2001年は35試合98打席、2002年は41試合84打席。2003年は44試合でも45打席と、途中出場の機会も多かった[1]。
最多出場は2005年の62試合。178打席、33安打、7本塁打、18打点も自身の年間最多だった。捕手として54試合に出場し、281刺殺、16補殺、失策0、捕逸3。同年は古田が87試合、米野智人が30試合でマスクをかぶっている[1][7]。
◇終盤も二軍では打っていた
2006年以降の一軍出場は1試合、10試合、9試合と減った。人物紹介では膝の故障や、米野智人・福川将和らとの捕手争いが挙げられている。2007年には一塁手としての起用もあった[1][5]。
2007年の二軍では56試合、139打数52安打、打率.374、6本塁打、34打点。出塁率.429、長打率.568と好成績を残した。ただし規定打席には達しておらず、首位打者ではない[8]。
◇新人捕手は古田の後にマスクをかぶった
1997年7月20日、神宮での巨人17回戦。小野は9回表に古田敦也に代わる捕手として初出場し、その裏、9番で初打席を迎えた。巨人の新人・三澤興一から2ランを放ったが、試合は4対7で敗れた[2][3][5]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 | 16 | 0 |
| ヤクルト | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 9 | 1 |
ヤクルトは3回に辻発彦の2号2ランで同点にしたが、巨人は5回に1点、7回に4点を追加。松井秀喜の25号、清原和博の15号も飛び出し、9回裏を迎えた時点では2対7だった[3]。
◇9回表から捕手として初出場
小野は9回表、古田に代わって捕手の守備に就き、9番の投手枠に入った。一方、古田が務めていた4番の枠には投手が入った。9回裏に巡ってきたのが小野の初打席で、1打数1安打2打点を記録した[3][5]。
| 位置 | 選手名 | 打順 | 打撃結果 |
|---|---|---|---|
| (捕) | 小野公誠 | 9 | 本② |
②は打点。初打席で三澤興一から2ランを放ち、初安打・初本塁打・初打点が同時に記録された。球団のメディアガイドにも、小野は1997年の初打席初本塁打選手として掲載されている[2][3][9]。
◇5点差を3点差に縮めたが、勝利には届かなかった
小野の2ランでヤクルトは4対7としたが、反撃はそこまで。勝利投手は桑田真澄、敗戦投手は田畑一也で、木田優夫にセーブが付いた[3]。
この日の小野は1打席だけ。古田は先発捕手として3打数無安打、1四球で、その交代から小野の一軍での打席が始まった[3]。
| 項目 | 初打席 | 最終打席 |
|---|---|---|
| 日付 | 1997年7月20日 | 2008年10月12日 |
| 年齢 | 23歳 | 34歳 |
| 相手 | 巨人 | 横浜 |
| 球場 | 神宮 | 神宮 |
| 打席 | 9回裏・9番 | 8回裏・7番の代打 |
| 相手投手 | 三澤興一 | 牛田成樹 |
| 結果 | 2ラン本塁打 | ソロ本塁打 |
| 得点の変化 | 2対7→4対7 | 3対3→4対3 |
| 試合結果 | 4対7で敗戦 | 4対3で勝利 |
初打席から最終打席までは4102日(11年2カ月22日)。日数は両試合日から、年齢は生年月日からそれぞれ計算した[1][2][3][4]。
最後の一発は、そのまま決勝点になった
2008年10月12日、神宮での横浜24回戦。3対3の8回裏2死、田中浩康に代わる代打として登場した小野は、牛田成樹から勝ち越しの1号ソロを放った。9回表を林昌勇が締め、ヤクルトは4対3で勝利。最終打席の一打が、引退試合の勝利を決めた[2][4][5]。
| チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 横浜 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 |
| 東京ヤクルト | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | × | 4 | 8 | 0 |
観衆2万2062人、試合時間2時間43分。ヤクルトは2回に2点を先制し、5回に飯原誉士の9号ソロで3対0とした。だが7回表、横浜の村田修一が押本健彦から46号3ランを放ち、3対3に追い付いた[4]。
◇四人が神宮に別れを告げる日
この日は小野だけでなく、真中満、度会博文、河端龍の引退試合でもあった。河端は6回に打者1人を三振に取り、度会は途中の代打で1打数無安打。真中も8回に代打で出場し、牛田の前に空振り三振に倒れていた[4][10]。
◇同点の8回裏2死に登場
小野が出たのは3対3の8回裏2死。7番・田中浩康の代打として、横浜5番手の牛田成樹と対戦した。ここで今季1号ソロを放ち、スコアを4対3に変えた。現役最後の打席で放った本塁打が、勝ち越しの一打になった[2][4][5]。
| 位置 | 選手名 | 打順 | 打撃結果 | 打数 | 安打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| (代打) | 小野公誠 | 7 | 本① | 1 | 1 | 1 |
①は打点。これは小野の通算16号で、2008年の唯一の安打でもある。最終打席前は10打数無安打だったが、この一打を加えて11打数1安打(打率.091)で引退した[1][4]。
| 投手名 | 投球回 | 打者 | 被安打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 自責点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 牛田成樹 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 |
牛田はこの回の3アウトをすべて三振で取り、唯一許した安打が小野の決勝ソロだった。真中満も同じ8回、牛田から空振り三振を喫した。真中は引退の挨拶でその三振を笑いに変えたという[4][10]。
◇小野の後に、もう打席は回ってこなかった
小野は代打での出場を終え、その後は宮本慎也が遊撃に入った。9回表は林昌勇が1回3打者、2奪三振で無失点。ヤクルトがリードしたまま試合を終えたため、9回裏の攻撃はなく、小野の本塁打が現役最後の打席として確定した。勝利投手は松岡健一、林には33セーブ目が付いた[4]。
◇四人の引退セレモニー
試合後には4選手の引退セレモニーが行われた。小野が「本塁打で始まり、本塁打で終わった」現役生活を宝物と語ったことが人物紹介で伝えられている。交流先の当時の記事には、息子から花束を受け取った場面も残る[5][11]。
◇引退後も捕手の経験を生かした
引退後は2009~2012年にスコアラー、2013年に二軍バッテリーコーチ、2014年に一軍バッテリーコーチを務めたと紹介される。2014年の一軍コーチ配置は専門誌でも確認できる。なお、NPBの任意引退公示は2008年11月25日で、最終出場日とは異なる[5][12][14]。
一打席だけの本塁打との違い
塩瀬盛道とドン・シュルジーはNPBでの通算1打席が本塁打だったため、最初と最後が同じ打席に当たる。小野は488打席の最初と最後に別々の本塁打を放った。なお、井口資仁もデビュー戦と引退試合の両方で本塁打を打ったが、初本塁打はデビュー戦の第3打席であり、初打席本塁打とは異なる[2][13]。
記録の範囲と確認できたこと
対象はNPB一軍レギュラーシーズンの打席。初出場試合や最終出場試合のどこかで本塁打を打つだけの例、二軍、オープン戦、日本シリーズなどは混ぜない。現在も現役の選手は最終打席が確定していないため対象外とする。
年度別成績と2008年の試合はNPB公式、1997年の試合は専門記録サイトと球団資料を用いた。打球方向・球種・投球数は採用資料から確定できず、打席表は「本②」「本①」とした。1997年の初出場は代打ではなく、捕手として守備に就いてからの初打席である[3][4][9]。
「NPB史上唯一」の位置付けは2020年の専門記録記事を根拠とし、2026年までの全選手を独立に再集計したものではない。通算一軍成績と二軍成績は別集計。学生時代と引退後の経歴、本人の発言は二次資料を含む。資料確認日:2026年10月26日。