FA権を最初に行使した選手は?

選手が自分の意思で、次に契約する球団を選ぶ。その道を開いたFA制度で、最初に権利を使ったのは誰だったのだろうか。

一般的には?

FAは、一定の資格を得た選手が、所属球団以外とも契約について交渉できる制度だ。資格を持つことと、宣言して権利を行使することは別で、宣言したうえで元の球団に残る場合もある。最初の選手を調べるには、資格取得、行使の表明・申請、公示、移籍決定の順を分ける必要がある。[8][18]

答え

最初にFA宣言選手として公示された選手松永浩美/駒田徳広

1993年11月4日、FA制度初年度の最初の宣言選手として、阪神の松永浩美と巨人の駒田徳広が同時に公示された。11月2日に申請済みと最初に公表したのは松永で、一般には「FA宣言第1号」と紹介される。一方、公式公示を基準にした第1号は2人。翌1994年、松永はダイエー、駒田は横浜でプレーした[1][2][4]。

年
1993年
選手
松永浩美/駒田徳広
チーム
阪神タイガース/読売ジャイアンツ
カテゴリ
選手・キャリア

詳細

◇初めての公示は2人だった

最初のFA宣言選手公示は1993年11月4日。阪神の松永浩美と巨人の駒田徳広が同時に公示された。当時の共同通信記事によれば、2人とも11月2日に申請書を郵送している。申請書の到着順までは確認できないが、公式公示の上では2人が第1号である[4]。

松永は11月2日にFA申請を済ませたことを報道陣に公表した。申請手続きの完了を最初に公表した選手として、デイリースポーツなどは松永を「宣言第1号」と紹介している。この記事では公示上の第1号を2人とし、松永の動きを詳しくたどる[2][3]。

◇最初の資格取得者は60人

1993年10月24日、コミッショナー事務局はFA資格取得選手60人を公示した。したがって、最初に資格を得た選手を一人だけ挙げることはできない。制度開始前の登録歴も対象となり、長く一軍でプレーしてきた選手たちが、最初の有資格者になった。公示時点の記事には、すでに任意引退となった3人と、引退表明者2人が含まれると記されている。[5]

同記事によると、有資格者の最年長は日本ハムの大島康徳で43歳、最年少は巨人の槙原寛己で30歳2カ月余り。平均年齢は34.7歳、平均のプロ在籍期間は14.9年だった。また、60人のうち、その年に一軍在籍10シーズンの条件に到達した選手は12人とされる。60人全員が、1993年のシーズン中に初めて10シーズンに達したわけではない。[5]

1993年10月の公示人数は60人。後年の記事にある52人は引退者8人を除いた数で、当時の記事の「引退関係者5人」とは集計の時点が異なる。後の「宣言者5人」とも混同しない[5][21]。

◇資格は試合数ではなく一軍登録歴で数えた

導入時の資格条件は「1シーズンに150日以上の一軍出場選手登録」を10シーズン満たすこと。単に通算登録日数が1,500日になればよいという条件ではなく、プロ入りから10年、同じ球団に10年間所属、通算1,500試合出場という意味でもない[6][7]。

判定に使うのは、試合への出場日数ではなく、公式戦期間中の一軍登録日数である。試合がない日も一軍登録が続けば対象となる[6][7][8]。

松永は1978年にドラフト外で入団し、1981年に一軍初出場。阪神に移った1993年は在籍1年目だったが、阪急・オリックス時代の一軍登録歴を通算してFA資格を得た。トレードで登録歴がリセットされないため、阪神で1年プレーした後にFA移籍できた[3][13]。

初年度の資格条件を、後年の「145日で1シーズン」「9シーズン」や、現在につながる国内・海外の区分で説明しない。150日未満の年の端数処理については、1993年の原協約を確認できていないため、初年度の具体的な日数計算例は置かない。[6][8][18]

制度が始まるまで
時期経緯
1987年選手会が移籍の自由につながる特別資格選手制度案を提示。機構側は年俸高騰などを懸念。[7]
1990年12月選手会がFA導入を目指す方針を確認。松永も役員として制度改革に取り組んだ。[6][11]
1991年FAを議題とする団体交渉が進むが、機構側は財政負担や戦力集中などを理由に難色を示した。[6]
1992年外部委員を含む専門研究委員会で検討。「一軍半選手」に対象を限定する案に選手会が反対。[6]
1993年1月パ・リーグ側が移籍元への補償案をまとめ、導入へ前進。[6]
1993年5月14日専門委員会が10シーズンなどを柱とする骨子を答申。選手会は取得年限や付帯条件に不満を表明。[6]
1993年9月21日機構と選手会が最終合意し、この年のオフからの導入へ。[6]
1993年10月24日最初の有資格者60人を公示。[5]
1993年11月2日・4日松永が2日に申請済みと公表。FA章は2日発効・4日制定と後年の協約に記載。4日に松永・駒田を同時公示[2][4][8]。

選手の移籍する自由と、球団の保留権が交渉の中心だった。選手会は待遇や働く場所を選ぶ余地を広げようとし、球団側には主力の流出、戦力の偏り、年俸上昇への警戒があった。最終的に資格条件と補償などを組み合わせて制度が成立した。導入案の段階にあった「権利行使は一度だけ」という制限は、最終合意では繰り返し行使できる形に改められている。[6]

◇残る選択もFAの行使

FA資格を得た段階では、他球団との交渉が自動的に始まるわけではない。所定の申請・公示を経て権利を行使する。元の球団と契約し直した場合もFAの行使に含まれるため、槙原の残留は、資格を持ったまま宣言せず残った選手とは区別する。[1][8]

1993年は11月27日まで旧球団との占有交渉期間が設けられ、他球団との交渉は28日に解禁された。4日に公示された松永と駒田も、同日から他球団と自由に交渉できたわけではない[4]。

◇制度初年度に行使した5人

NPBの1993年度FA宣言選手公示には、松永、駒田、石嶺和彦、落合博満、槙原寛己の5人が載っている。移籍した4人に加え、巨人と再契約した槙原も、権利を行使した選手に含める。「移籍した人数」と「行使した人数」を数え分けることが、初年度を読むうえで大切だ。[1]

宣言者の全一覧
選手名宣言前の球団翌年の所属球団移籍・残留
松永浩美阪神タイガース福岡ダイエーホークス移籍
駒田徳広読売ジャイアンツ横浜ベイスターズ移籍
石嶺和彦オリックス・ブルーウェーブ阪神タイガース移籍
落合博満中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ移籍
槙原寛己読売ジャイアンツ読売ジャイアンツ宣言残留

1993年度に権利を行使した全5人。球団名は当時のもの。掲載順は申請の厳密な時刻順ではない。宣言者5人と移籍者4人を区別した。[1]

◇駒田徳広は最初の公示から横浜の主軸へ

駒田は松永と同じ日に公示され、巨人から横浜へ移籍した。1993年は打率.249、7本塁打、39打点だったが、移籍1年目の1994年は全130試合に出場し、打率.284、13本塁打、68打点。1998年には横浜のリーグ優勝と日本一にも貢献した[4][15][19]。

◇落合博満は長嶋巨人を選んだ

ロッテ、中日で強打者として実績を積んだ落合は、長嶋茂雄監督が率いる巨人へ移籍した。1993年の中日では打率.285、17本塁打、65打点。移籍した1994年は打率.280、15本塁打、68打点で、巨人はリーグ優勝と日本一を達成した。40歳を迎えるオフに、実績ある中心打者が自ら次の球団を選んだ例である。[14][19]

◇石嶺和彦は指名打者の多かったパからセへ

石嶺はオリックスから阪神へ移籍。1993年は130試合で24本塁打、77打点を挙げ、阪神に移った1994年も130試合に出場して17本塁打、77打点を記録した。オリックスでは指名打者での起用が多かったが、阪神では外野を守った。パ・リーグの指名打者から、セ・リーグでは守備にも就く立場へと変わった[16][19]。

◇槙原寛己は宣言して巨人と再契約

槙原は1993年に13勝5敗、防御率2.28。11月10日に申請書類を投函したとデイリースポーツは記している。長嶋監督がバラの花束を持って自宅を訪れ、残留を求めたことでも知られる。最終的には巨人と再契約し、1994年も12勝8敗、防御率2.82を記録した。FA元年の行使者を移籍した4人だけで説明すると、この重要なケースが抜け落ちる。[2][17]

FA前後の打撃成績
選手名年球団試合打率本塁打打点
松永浩美1993阪神80.294831
松永浩美1994福岡ダイエー116.314855
駒田徳広1993読売122.249739
駒田徳広1994横浜130.2841368
石嶺和彦1993オリックス130.2732477
石嶺和彦1994阪神130.2461777
落合博満1993中日119.2851765
落合博満1994読売129.2801568

NPBの個人年度別成績。FA前年ではなく、宣言した年と、その翌年を並べた。[13][14][15][16]

槙原の投手成績
年球団登板勝利敗北投球回奪三振防御率
1993巨人28135173 2/31752.28
1994巨人291281851532.82

宣言残留のため両年とも巨人。投球回の3分の2は小数の0.2回とはしない。[17]

松永浩美のキャリアをFAからたどる

松永は右投げ両打ちの内野手。小倉工高を中退し、練習生を経て阪急で一軍に定着した。1985年には打率.320、26本塁打、38盗塁を記録。オリックスでも主力としてプレーした後、1992年オフに野田浩司とのトレードで阪神へ移った。自分の意思で球団を選ぶFAとは異なる経路の移籍を、制度導入の直前に経験していた。[3][12][13]

時期所属・出来事FAを読むうえでの意味
1978~1981年練習生を経て阪急へ。1981年に一軍初出場。[12][13]資格の土台はプロ入り年だけでなく一軍登録歴。
1985年阪急で打率.320、26本塁打、38盗塁。[13]移籍前から走攻に実績を持つ選手だった。
1990年オフ以降選手会の制度改革に関わり、改革委員長として活動。[9][11]権利の利用者である前に、導入に取り組む側だった。
1992年オフ野田浩司とのトレードで阪神へ。[3]直前の移籍は球団間の交換トレード。
1993年阪神で80試合、打率.294。オフにFA権を行使。[1][13]1球団での在籍が1年でも通算の登録歴が資格の基礎になる。
1993年11月29日ダイエーへの入団を決定。[20]本人が選んだ移籍先はパ・リーグの球団。
1994年ダイエーで116試合、150安打、打率.314。[13]移籍1年目も一軍の主力として出場。
1997~1998年1997年にダイエーを退団し、米球界挑戦を経て引退。[12]NPBでの最終出場年と、現役引退の年は分ける。

◇巨人ではなくダイエーを選んだ理由

後年のインタビューで松永は、FA制度には選手が行きたいと思う球団を増やし、球団と選手の関係を変える狙いがあったと振り返っている。落合から巨人で一緒にプレーしようと誘われたが、改革を必要としていたダイエーを選んだという。いずれも松永本人の回想である[9][10]。

根本陸夫監督は松永に、三塁手としての働きに加え、チームを引っ張る役割を求めた。松永は西武とダイエーを検討した末、1993年11月29日にダイエー入りを決定。共同通信によれば、FA宣言選手の他球団移籍先決定第1号となった。ただし、この日に契約を結んだわけではない[3][20]。

松永の主な年度成績
年球団試合安打本塁打打点盗塁打率
1985阪急130154268738.320
1992オリックス11814133915.298
1993阪神80898313.294
1994福岡ダイエー1161508558.314
1995福岡ダイエー87763215.238
1996福岡ダイエー66453133.217
1997福岡ダイエー153131.125

FA前後と代表的なシーズンを抜粋。NPB通算は1,816試合、1,904安打、203本塁打、855打点、239盗塁、打率.293。NPBでの最終出場は1997年で、FA移籍先のダイエーには4シーズン在籍した。[13]

◇初年度からあった期待と抵抗

阪神移籍から1年でFA宣言した松永には、ファンや報道から強い反発もあった。前年の交換相手だった野田浩司がオリックスで17勝したことも批判を強めたと、回顧記事は伝えている[3]。

一方で、槙原のように交渉の末に残る例も、落合や駒田のように移籍先で優勝に関わる例も、初年度から生まれた。最初の5人は、移籍だけでなく宣言残留という選択肢も示した[1][2][19]。

集計範囲と確認できなかったこと

対象は1993年オフのNPBのFA制度。第1号は「最初のFA宣言選手の公示」を基準に松永浩美と駒田徳広の2人とした。申請完了の公表第1号は松永。初年度の宣言者5人はNPB公式一覧で確認し、自由契約・任意引退・トレードによる移籍は含めない[1][2][4][8]。

初年度の資格取得者は60人。ただし、60人全員の氏名を確認できる原公示・名簿は今回入手できず、全員の紹介には至っていない。個々の年別登録日数、資格に達した最初の日、1993年の原協約による端数日数の扱いも未確認である。在籍年数や出場試合数から登録日数を推計し、名簿の不足を補うことはしない。[5]

資格条件の説明は、1993年の合意を扱う研究と当時の記事を優先し、後年の規則を初年度へ当てはめない。2007年協約はFA章の制定・発効日と権利行使の定義の確認に使用し、同版の145日・9シーズンという条件を1993年の条件とはしていない。[6][7][8]

松永の公表日を11月3日とする後年の記事もあるが、当時の11月2日付記事とデイリースポーツを優先した。落合の宣言日にも7日・8日の記述差があるため、本記事では細かな申請順を順位化しない。松永の11月29日は移籍先の決定日で、契約締結日ではない。初年度は「移籍4人」と「宣言者5人」を区別する[1][2][3][7][19][20][21]。

制度導入の目的は、選手会の交渉史と松永本人の後年の証言を区別して記述した。選手個人の回想から、導入が一人だけの功績だったとはしない。成績はNPB一軍公式戦の個人年度別成績で、ポストシーズンを含まない。資料確認日:2026年10月20日。

何がすごいのか

  • 最初の公式公示には2人が並び、初年度全体では5人が権利を行使した。宣言残留も制度開始時から存在した。[1][4]
  • 初年度から過去の一軍登録歴を用いて資格を判定。制度ができてから10年待ったわけではなかった。[5][6]
  • 制度導入に取り組んだ松永が、自ら宣言・移籍の先頭に立った。移籍先に選んだのはパ・リーグのダイエーだった。[9][10][11]

出典